第39話 夜の鎖
「その膝で走ったら、門まで戻れません」
白壁診療所の助手マティアは、ロウラの左膝を板で挟み、布を巻いた。左腕は縫い直され、肋骨に触れられると、寝台を掴む手が緩んだ。
「走らねえ。帰りは荷車に乗る」
「逃げるときは、まず荷台へ。殴り続けていたら、運ぶ人まで逃げ遅れます」
マティアが布を結ぶ。ロウラは口を閉じた。敵が来れば、乗るより殴る。その癖まで見透かされた気がした。
港へ向かう荷車に、今朝助けた母子が乗っていた。王国軍が通行を認めた避難船へ向かうのだ。その舟が離れるまで、城壁を破らせたくなかった。
戸口ではレトが荷車を待たせていた。修理工で市民兵のコルヴォが、車輪を確かめている。
「車輪が壊れても、荷台は外せる。縄で引いて運ぶ」
コルヴォは荷台の四隅に縄を結んだ。運ぶ二人は、ロウラを降ろすまで逃げられない。その重さを考え、膝の布を握った。
リネアが荷台へ跳び乗った。
「ぼくも乗る」
「お前は飛べるだろ」
「ロウラといっしょがいいの」
黒猫は真ん中へ座った。ロウラが眉を上げると、端へ寄り、白い前足で隣の板を叩いた。ロウラは右脚から荷台へ上がった。
*
日が落ちると、北門の内側にヴァレリアと近衛十人が集まった。ルフィオのいた場所には、誰も立たなかった。
王妹が鎖状の腕輪を持ち上げた。
「ロウラ。今夜だけでも、つながるかい。古い傷は移らないけど、新しく受けた傷は分けられる」
ロウラは近衛の包帯へ目を落とした。一本の槍で十二人が傷ついた夜を知っている。ルフィオは鎖を離れ、帰らなかった。
「あたしが刺されたら、そいつらまで傷つくだろ。つながらねえ」
「ああ。なら荷車には乗りな。あんたまで担いだら、あたしの膝も折れるよ」
ヴァレリアは笑った。サビナが腕輪に触れ、近衛たちも一人ずつ頷いた。今夜の傷を十一人で分ける。傷を治せるわけではなく、これまで失った血も戻らない。
参謀のフェレンスが、図の北門から畑へ延びる線を指した。
「破城槌は門から二百歩先です。この用水路の底を進み、組立場の裏へ回ります。近衛が見張りを押さえ、ロウラとコルヴォが槌を壊します。攻城塔には手を出さない」
畑へ水を流すために掘られた水路だった。今は水が涸れ、底は荷車が通れる幅がある。腰をかがめて進めば、両側の土手が姿を隠してくれる。
太い丸太を二本の鎖で吊り、先端の鉄で門を叩く。木枠を屋根で覆い、四つの車輪で運ぶ道具だった。
「後輪の車軸と、丸太を吊る後ろの横木を壊す」
コルヴォが図に二か所、丸をつけた。
「鉄の頭を殴っても、お前の腕が先に駄目になる」
火壺の油で木枠を燃やし、組み直せなくする。
フェレンスが帰路を指した。
「帰りもこの水路です。近衛が追手を防ぎ、荷車を先に通します。門の弓が届くところまで、護衛を続けます」
サビナはリネアへ青い布を見せた。
「槌を壊したら、コルヴォからこの布を受け取って、私へ届けてください。それを合図に近衛を退かせます」
「うん。サビナのとこへ持ってくね」
コルヴォが布を受け取り、腰帯へ挟んだ。
北門が、人と荷車を通せる幅だけ開いた。
*
水の涸れた用水路へ入ると、車輪が底の泥に沈んだ。レトが荷車を押し、コルヴォが前から引く。段差を越えるたび、ロウラの肋骨が軋んだ。
松明に照らされた破城槌は、屋根が半分しか張られていない。その奥に、城壁ほどの高さの攻城塔がそびえる。
近衛が水路の土手を越えた。見張りの口を押さえ、槍を奪う。二人目が声を出す前に、サビナの盾がその顔へ当たった。
レトが槌の後ろへ荷車を寄せた。コルヴォの肩を借りて降り、ロウラは右脚へ体重をかけた。左膝は添え木で曲がらない。
後輪の車軸には、車輪止めの穴から細い割れ目が伸びていた。コルヴォがそこへ鉄の楔を打ち込む。
「楔の頭を殴れ。割れ目を押し広げるんだ」
大振りすれば左膝が崩れる。コルヴォが脇を支える間に右脚を開き、腰をひねらず、楔の頭を狙う。
右拳を短く振った。割れ目が開き、二度目で軸が裂けた。外れた車輪が泥へ倒れる。
木枠が沈んだ音に、奥の天幕が開いた。
「襲撃だ! 槌を守れ!」
王国兵が盾を並べた。ヴァレリアがその前へ踏み込み、剣で槍を跳ね上げる。近衛十人が左右へ広がり、兵を槌へ近づけなかった。
コルヴォが後ろの横木を指した。鎖の留め金を通した穴と、屋根板をはめる切り込みの間には、僅かしか木が残っていない。
「穴と切り込みの間を割れ! 鎖が外れて、丸太が落ちる!」
ロウラは柱へ肩を当て、拳を打ち込んだ。木屑が落ちる。肋骨の痛みに、次の息が吸えない。
折れていない。もう一度だ。
拳の皮が裂けた。三度目で横木が割れ、鎖の留め金が抜ける。丸太の後端が落ち、残った鎖を支点に振れて、沈んだ木枠へ激突した。
コルヴォが槌の屋根へ火壺を叩きつけ、松明で油に火を移した。炎が走った。
「壊れた! リネア、サビナに知らせろ!」
コルヴォが腰帯の布を抜いた。
リネアが青い布を前足で抱えた。屋根の向こうへ飛びかけ、噴き上がった炎に戻される。黒い翼の端が焦げた。
「あつい! こっちは通れないよ!」
猫は槌の前端へ回った。ロウラも退却を叫んだが、角笛に声を消された。近衛は盾を並べたままだ。
右の天幕から王国兵二人が出た。レトが一人に飛びつく。もう一人が、ロウラの添え木を見て天幕へ叫んだ。
「車を壊せ! あいつは走れない!」
斧が車軸へ食い込んだ。割れる音がして、荷台が片側へ落ちた。
ロウラは荷台へ手を伸ばした。そこへ乗れば逃げられた。今は、その板も泥の中に傾いている。左膝が崩れ、片手をついた。門まで二百歩。這って戻る前に、追いつかれる。
天幕から次の兵が出た。レトとコルヴォの間を抜け、自分へ来ようとしている。
「こっちへ来いよ!」
殴れるところへ呼ぼうとしていた。殴り倒しても、次が来る。運ぶ二人を、いつまでここへ置く。
コルヴォが短槍で斧の兵を押し退け、荷台を留める木栓を次々に抜いた。
「荷台に乗れ! 縄で引いて戻る!」
荷台が外れた。ロウラが縁を掴む間、コルヴォは縄を持つために敵へ背を向ける。早く乗らなければ。
リネアがサビナの盾へ青い布を落とし、上へ飛び退いた。
「撤退! 水路へ戻れ!」
サビナの声に近衛たちが後退する。その一歩を王国兵が追った。
退く近衛の盾の下へ、槍が入った。男が脇腹を押さえて倒れる。同時にヴァレリアが体を折り、サビナの外套へも血が染みた。
《絆鎖》が、十一人へ傷を分けた。後ろの二人も膝をつき、盾が泥へ落ちる。命をつなぐ鎖が、荷台を守る列まで一度に崩した。
空いたところへ、王国兵が殺到した。荷台はまだ動いていない。ロウラを運べば、倒れた近衛が残る。近衛を拾えば、運ぶ二人の背へ槍が届く。
いちばん近い兵が、縄を掴んだコルヴォへ槍を向けた。
ロウラは右脚で地面を蹴り、横から槍の柄を掴んだ。兵を引き倒し、肩を泥へ押しつける。首を折れば、すぐ次へ行ける。頭へ上げかけた拳を、肘へ落とした。
「槍を放せ!」
兵が槍を放し、腕を抱えて転がった。ロウラも膝をつく。コルヴォの顔は見られない。また荷台から離れていた。
ヴァレリアが、倒れた近衛の襟を掴んだ。
「立てないなら引きずるよ! 生きて帰すためにつないだんだ。また一人、ここへ置いていくもんか!」
笑う口から血がこぼれた。サビナが盾で追手を押し返す。立てた近衛が膝をついた二人へ肩を貸し、王妹も倒れた男を引きずった。
レトがロウラの脇へ腕を入れ、荷台へ抱え上げた。肋骨の痛みに声が漏れる。
レトとコルヴォが縄を引いた。荷台が泥を削り、コルヴォの肩が後ろへ引かれる。
コルヴォの掌は縄で皮が剥け、血が落ちていた。降りれば軽くなると、ロウラは左脚を動かした。添え木が板へ擦れた。降りた自分を拾うために、また二人が止まる。
足を板へ戻した。
リネアが低く飛び、用水路の曲がり角へ降りた。
「こっち! ここ、通れるよ!」
背後から矢が飛んだ。サビナが盾で防ぎ、王妹と近衛を水のない水路へ下ろす。レトとコルヴォが荷台を泥の上で引く。曲がり角で、板の端が土へ食い込んだ。
ロウラは右手で土手を掴み、荷台ごと体を引き寄せた。板の端が土から抜ける。剥けた拳に泥が擦れ、視界が白くなった。
「手を放せ! もう荷台は引ける!」
レトに言われても、すぐには指が開かなかった。
北門の火が見えた。背後でマルケルスが叫んだ。
「追撃を止めろ! 城壁の弓が届くぞ!」
城壁から矢が飛び始めた。王国兵は盾を重ね、弓の届かない場所まで退いた。
*
門内へ引き込まれた荷台を、マティアと兵が持ち上げた。近衛にも担架が来る。十一人の脇腹から血が流れていた。
ヴァレリアが最後の近衛を数え、そこで膝を落とした。
「十一人。全員、戻ったね」
笑おうとして咳き込んだ。サビナが背を支え、その手も血で滑った。
リネアが焦げた翼を畳み、白い前足で荷台の縁を掴んだ。
「布、すぐ持っていけなかった。ごめんね」
「ちゃんと届いた。お前も帰って来た。それでいい」
撫でようとした右手の血を見て、リネアが鼻を引いた。血のない左の指先へ、額をそっと当てた。
フェレンスが壁上から下りてきた。
「破城槌は燃えています。今夜、門へ運ばれることはありません」
ロウラは顔を上げた。門は守れた。そう言おうとした息が、肋骨の痛みで途切れた。
「攻城塔が動き始めました。門を壊す代わりに、北壁の上へ兵を送り込むつもりです」
マティアが体を起こしかけたロウラの肩を押さえた。
「あなたも近衛も、今夜はもう立たせられません」
門の外で、重い車輪が軋んだ。壊せなかった塔が近づいてくる。
ロウラは城壁へ登る階段を見た。敵を迎え撃つために立とうとしたが、左膝が崩れ、マティアに抱き止められた。拳が使えても、負傷した脚では城壁の上まで上がれない。




