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第38話 麦のない舟

 子供の口が開いた。泣き声が出ない。


 ロウラは抱いた体を少し離し、胸を圧迫しないよう腕の形を変えた。肩を踏んでいた靴が退く。次の足が、すぐ背中へ載った。


「人が倒れてるよ! 止まって!」


 頭上でリネアが叫んだ。人の頭すれすれを飛び、列の後ろへ向かう。


 ロウラの前には、倉の敷居があった。腕を伸ばせば掴める。けれど体を引き上げるには、子供を放さなければならない。


 背を踏む脚を掴んで倒すところまで考えた。こいつが退けば立てる。その後ろにも、倒れた自分たちを見ていない人間がいる。


 上げかけた手を、子供の頭へ戻した。


「裏口を開けろ! 麦袋を外へ出す!」


 セヴァンの声がした。倉の中で袋を運ぶ音が続き、今度は路地の向こうから叫びが上がる。


「こっちでも麦、もらえるよ! 前で人が倒れちゃったの。押さないで!」


 リネアの声だった。後ろの人々が路地へ向きを変え、背中にかかる重さが緩んだ。


 敷居の上から、ティロが両腕を伸ばした。


「子供を、こっちへ!」


 ロウラは子供を差し出した。手から重さが消えた途端、取り返したくなる。ティロが胸へ抱え、倉の奥へ下がるのを見届けた。


 ようやく地面に右手をつけた。セヴァンが脇を支え、敷居の内側へ引き込む。外ではまだ怒声が続いていたが、人が踏み越えてくることはなくなった。


 ミレアが子供の服を緩めた。小さな胸が動き、掠れた泣き声が出る。


 ロウラは立ち上がろうとして、床へ膝を落とした。左腕の包帯から血が染み出していた。


「母親が外にいる。転んだ女だ」


「私が呼ぶ」


 ミレアが戸口へ向かった。ロウラはその背を追いかける代わりに、子供のそばへ座り直した。


 戻ってきた母親は、腫れた足首を引きずっていた。子供を抱くと、震える指で何度も髪を撫でる。


「お前が先に入るからだ!」


 外で誰かが怒鳴った。母親が子供を隠すように体を丸める。ロウラは戸口へ顔を向けた。


「踏んだ奴が言うな!」


 母親まで叱られるのが耐えられなかった。今なら立てると思い、右手で床を押す。肋骨に痛みが走り、息が止まった。


 セヴァンが外へ出て、係員とともに人々を二つの列へ分けた。すぐ配れる量だけ先に渡す。麦は増えないが、閉まる扉を奪い合う必要はなくなった。


 戻ってきたリネアが床へ降り、白い前足をロウラの膝へ置いた。


「ぼく、みんなに言えたよ」


「聞こえた。助かった」


「じゃあ、撫でて」


 リネアが頭を寄せた。ロウラは震える右手で耳の間を撫でた。


「もっと」


 リネアが掌に頭を押しつけた。


 セヴァンが戻ると、裂けた左腕へ新しい布を巻いてくれた。ロウラは布を持つ手から目を離せなかった。さっき子供を渡したときも、相手の指が滑るところばかり想像した。


 実際には、ティロは落とさなかった。セヴァンの布も、血を押さえている。


 巻き終わるまで口を出さずにいた。それだけで、喉がひどく乾いた。


 *


 昼前、配給倉の奥でセヴァンが帳面を閉じた。


「半分に減らしても四日だ。昨日の量なら二日しかない」


 母親と子供は診療所へ運ばれた。戸口では、係員が麦を量って渡している。あの少なさで四日だった。


 自分も腹が減っていた。最後に食べたのは、昨日の火事より前だ。配給を受け取った男が袋の口を結ぶのを見て、その一握りを口へ入れるところまで想像してしまった。


 この街を守るために残った。それで自分だけは、食わずに働けるつもりだった。


 腹が鳴る。セヴァンが自分のパンを半分に割り、ロウラの手へ載せた。返す言葉より先に、噛みついていた。


「川から、持って来られねえのか」


「河運組合が動いてる。上流の村で麦と薬を積んだ舟が、今日着くはずだ」


 セヴァンは帳面の角を指で押さえた。


「ただ、王国軍が川にも見張りを置いた。入れたとしても、次を同じ道で運べるかわからない」


 戸口にヴァレリアが立った。昨日の包帯に新しい布を重ね、裏返していた赤い外套を今は表へ戻している。


「マルケルスから使いが来た。河岸で、最後の会見だとさ」


 笑う口元の片側が引きつった。ルフィオを失ったばかりの王妹が、昔の部下へ会いに行く。


「あたしも行く」


「歩けるのかい」


 ロウラは立ち、棚に手をついた。王妹はその手を見た。大丈夫だと言えば、昨日の火事を見ていたこの人にも嘘をつくことになる。


「遅い。走れねえ」


「じゃあ、遅く行くよ」


 ヴァレリアは戸口を退き、サビナへ護衛の支度を告げた。


 *


 南水門の外にある河岸で、王国軍の白旗が風に張っていた。


 ヴァレリアと防衛参謀フェレンスが前へ進み、サビナとロウラは数歩後ろについた。リネアはロウラの肩にいる。市壁の上の弓も、王国兵の槍も、こちらへ向けられてはいなかった。


 川を背に立つマルケルスは、王妹の包帯を見た。


「殿下。負傷しておられるなら、使者だけでも」


「古い部下の顔くらい、あたしが見に来るさ。兄へ貸したまま、ずいぶん長いね」


 ヴァレリアが笑った。マルケルスは踵を揃えたが、頭は下げなかった。


「私はもう、殿下の指揮下にはありません」


「知ってるよ。あんたは律儀だから、返されるまで帰って来ない」


 王妹は同じ調子で言った。マルケルスの顎がわずかに動く。反論を飲み込んだように、ロウラには見えた。


「市内の食糧倉が焼けたと聞いています。要求を受諾すれば、食糧の搬入を認めます」


 フェレンスが書状を受け取り、その場で開いた。


「王妹殿下と指定された銘持ちの引き渡し。レリックの没収。王国軍の入城。条件は変わりませんね」


「はい」


 ロウラはマルケルスを見た。火をつけた二人の顔が浮かぶ。問い詰めたかったが、この男の命令で動いたという証拠はなかった。


「あたしだけ出たら、麦を入れるか」


 ヴァレリアが振り向いた。ロウラは目を合わせず、マルケルスの返事を待った。


「あなた一人では、要求を満たしません」


 ヴァレリアがマルケルスへ向き直った。


「あたしが出てもかい」


「名簿の全員です」


 フェレンスが書状の一行を指した。


「この名簿は、今後も追加できる。今日の全員を渡したあと、明日また別の住民を要求できますね」


「追加の王命があれば」


 ロウラは口を閉じた。誰を置いて出れば終わるのかと考えた。その終わりさえ、この男は約束していない。


 川上から、櫂の音が近づいた。


 麦袋を積んだ小舟だった。船尾にはヴァルネの旗が巻きつけられている。来た、と口が動きかけた。


 漕いでいるのは王国兵だった。


 船頭二人は手を縛られ、袋の間に座らされていた。一人の頬に血がついている。


「上流で止めました。積荷は穀物と薬。それから矢束です」


 舟から下りた兵が、麦袋の下に隠されていた矢をマルケルスへ見せた。


 ロウラは舟へ近づこうとした。王国兵が槍を構える。サビナが腕を広げて止めた。


「交渉中です。麦を奪い返そうとすれば、王国兵に攻撃されます。あなたを守る私たちも戦うことになります」


 マルケルスが兵へ言った。


「積荷を接収する。船頭は拘束を解け。傷の手当てをして、舟とともに市へ戻せ」


 兵が袋へ手をかけた。


「待てよ! その麦、子供も食うんだぞ!」


 ロウラの声に、男は手を止めた。マルケルスがこちらへ顔を向ける。


「守備兵も食べます。武器とともに包囲中の都市へ運ぶ以上、軍需物資です」


「子供に食わせる麦まで、兵の飯と一緒に取り上げるのか!」


 肩からリネアが飛び、足元の石へ降りた。ロウラは前へ出ようとしていた足を止めた。黒猫の向こうに、槍を持つ王国兵がいる。


 殴れば、袋の一つは取り返せるかもしれない。そこから先は、川岸にいる全員を巻き込む。


 ヴァレリアがロウラの横へ来た。マルケルスへ向く顔には、まだ笑みがあった。


「あんたの兵は、今朝、食えたかい」


「配給しています」


「なら、こいつらが持って来た麦を残してやってくれ。あたしを捕まえる前に、飢えた子供まで増やすことはないだろう」


 マルケルスの視線が、兵の手元の麦袋で止まった。


「積荷を運べ」


 今度は、誰も手を止めなかった。


 袋と薬箱が王国側の荷車へ移された。着けば少しは増えるはずだった麦が、一袋ずつ、自分たちから遠ざかる。


 ヴァレリアの頬が上がったまま固まった。マルケルスはその顔から先に目を逸らした。


 *


「避難船だけは通してください」


 フェレンスが交渉を続けた。


「武器、兵、軍需物資を載せないこと。指定された銘持ちは乗せないこと。検査を受ければ、民間人の避難は認めます」


 マルケルスは答えた。フェレンスが条件を書き取り、負傷者を乗せる許可も得た。


 ロウラは母親の腫れた足首を思い出した。歩けない人間を、ここから出すことはできる。麦を取り返せなかった手を、外套の下へ引っ込めた。


 船頭の縄が解かれた。ロウラは頬に傷のある男へ肩を貸し、空になった舟へ乗せた。リネアがロウラの肩から舟の縁へ降りる。


「ほっぺ、痛い?」


 男は頷き、麦袋のなくなった舟の底を見た。


「積んだときは、こんなに軽くなかった」


 ロウラは男が座席へ腰を下ろすまで支えた。リネアが肩へ戻ると、もう一人の船頭が舟を水門へ漕ぎ出した。


 河岸の通用口から市内へ戻ると、ヴァレリアは赤い外套の留め具を外した。笑顔はもうなかった。


「船頭を診療所へ。避難船を今日中に出す。あたしたちは残るよ」


 伝令が門の階段を駆け下りてきた。


「北の攻城塔に車輪がつきました! 破城槌も、鉄の先端を取り付けています!」


 フェレンスが北を見た。


「今夜なら、まだ組み立て場所にある。運び出されたら、近づけません」


 ロウラは左腕の包帯を押さえた。北壁を破られれば、麦を待つ列の中へ兵が入ってくる。


「今夜、破城槌を壊す。どこを壊せば止まるか、あたしに教えろ」


 フェレンスはロウラの膝へ目を落とした。


「壊す音で敵兵が集まります。今の脚で、逃げ切れますか」


 ロウラは答えず、門の階段へ足をかけた。左膝が崩れた。サビナに右腕を掴まれ、石段に顔を打つ寸前で止まる。

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