第37話 燃えた麦
扉の向こうで、咳に混じって声がした。
「四人いる! 開けてくれ!」
ロウラは入口へ近づき、頬を焼く熱に足を止めた。戸口に油が撒かれている。炎は扉を舐め、軒下まで届いていた。ここから入れば、自分も中の四人も火を通らなければならない。
頭上のリネアが、屋根へ近づきかけて戻った。熱い煙に押され、翼が大きく乱れる。
「裏にも扉がある! こっち!」
低く飛ぶ黒猫を追い、建物の脇へ回った。裏口は炎から離れていたが、外から鎖で留められている。扉を叩く音が、中から聞こえた。
ロウラは鎖を掴んで引いた。留め具が板から抜け、扉が開く。黒い煙が顔へ噴き出した。
「低くなれ! 出口はここだ!」
しゃがんで入ると、床近くにはまだ人の姿が見えた。奥の壁に高窓が一つ。その下には麦袋が積まれている。
男が二人、老人の肩を支えていた。四人目は袋の山に脚を挟まれ、壁際で腕を振っている。
袋を退ければ出せる。
そこまで見えて、ようやく息を吸った。煙が喉へ入る。咳を堪えようとして、余計に胸が痛んだ。
追いついたヴァレリアが、裏口で片膝をついた。
「歩ける奴は、こっちへ! 肩を貸すよ!」
ロウラは老人の腰を支え、二人と一緒に戸口まで押し出した。外の手が伸び、老人を受け取る。三人が出たところで、袋の下の男へ戻った。
「今、どかす。脚を引くな」
男は頷いた。唇が白い。ロウラはその顔を見ないように、袋へ手を入れた。
ルフィオの顔を重ねたくなかった。似ていると思えば、手が急ぐ。急げば、どこかをまた間違える。
一袋を横へ退け、脚に載った二袋目を持ち上げた。男が踵を引き抜く。
入口から上がった炎が、屋根の内側へ回っていた。裏口の上でも、梁から細かな火の粉が落ち始めている。
そのとき、裏口の上で木が裂けた。
「ロウラ、離れろ!」
ヴァレリアの声と同時に、燃えた梁が落ちた。瓦と板が戸口を埋め、火の粉が袋へ降りかかる。さっき三人を通した道が、炎に塞がれた。
男が口を開いた。声が出ない。代わりに、ロウラの手首を掴んだ。
握る力が弱い。それが怖かった。出口を壊した木へ怒鳴りたくなり、そんなことをしている時間はないと歯を噛み合わせる。
力ならある。袋も梁も動かせる。けれど息を止めて動ける時間は、この男と大して変わらない。
戸口を塞ぐ梁は燃えていた。これを動かしていては、男が煙で意識を失う。
奥の高窓を見た。
ロウラは男を引き寄せ、窓の下へ移した。麦袋の上に片足を置く。古傷のある右脚が折れそうに痛み、膝を袋へついた。
男の指が、手首から滑った。
「寝るな! あたしの服を掴め!」
声を出したぶんだけ煙を吸った。男は服の裾を握った。引っ張られる感触を確かめ、ロウラは袋を踏み直す。
窓には木の格子が嵌まっていた。拳を当て、短く打つ。一本が折れた。残る一本を掴んで引き抜くと、夜の空気が頬へ触れた。
窓の外に、リネアがいた。
「ここ! 二人、ここにいる!」
下で人が動く。ヴァレリアと市兵が、荷車を窓の下へ押してきた。王妹が荷台へ上がり、両腕を伸ばす。
ロウラは男の脇へ腕を入れ、頭から窓へ押し出した。外の手が肩を掴む。腰まで出たところで、男が止まった。
服の裾を、まだ握っていた。
「離していい。外の人が掴んでる」
男は首を横に振った。
怖くて離せないのか。掴んだものを手放す怖さは、自分にも覚えがあった。怒鳴りかけた言葉を飲み込んだ。
「あたしも出る。すぐ後ろにいる」
一本ずつ指が離れた。男の体が外へ滑り、王妹が荷台へ抱え下ろす。
ロウラも窓枠へ手をかけた。割れた木が左の前腕を裂く。血で指が滑り、掴み直した瞬間、背後で麦袋が燃え上がった。
腹を窓枠へ載せ、外へ転がり出た。
荷台へ落ちた衝撃で、肋骨の古傷が痛んだ。咳をすると、胸の奥まで響く。ヴァレリアの手を払いかけたが、その手はもうロウラではなく、隣の男の背を支えていた。
四人とも、外にいる。
ロウラは人数を数え直した。息をしている胸を見て、やっと荷台の縁から指を離した。
「お前、名前は」
脚を挟まれた男が、咳の合間に答えた。
「マロ。倉番の、マロ」
ロウラはその顔を見直した。名前を聞いても息が続く保証にはならない。けれど、この男を傷の場所だけで覚えていたくなかった。
*
水桶の列ができても、倉庫の火は止まらなかった。
ロウラは荷台から脚を下ろした。地面へ踵をつけて立とうとすると、右膝が崩れた。
「袋なら、まだ出せる」
声が掠れた。裏口の外に運び出された麦袋は、わずかしかない。中には、明日から配る麦が積まれている。
あそこへ敵を通したのは自分だ。
人を出せたことを理由に、ここで座っていていいのか。袋の一つでも持ち出せば、誰かの腹が満ちる。そう考えると、脚の痛みを認めることまで逃げに思えた。
ヴァレリアが、ロウラの前に立った。
「もう屋根が落ちる。そこから見てな」
「見てるだけじゃ、麦は戻らねえだろ!」
「ああ。戻らない」
笑わずに言われ、ロウラは顔を上げた。
王妹は包帯の端を押さえ直していた。昼の傷は、まだ治っていない。それでもロウラの前を退かなかった。
王妹の背後で、倉庫の屋根が沈んだ。瓦が一斉に崩れ、炎が吹き上がる。水を運んでいた人々が桶を抱えて退いた。
運び出そうとしていた袋も、全部その下へ消えた。
ロウラは地面から脚を引いた。自分が戻れば、ヴァレリアも追ってくる。人をもう一人危険に置くだけだ。
その判断が、ひどく薄情に感じられた。
路地からサビナが戻ってきた。近衛二人が、それぞれ男を連れている。片方の腰には、油の壺がまだ吊られていた。
「北へ抜けようとしたところを捕らえました。二人ともです」
男を見た瞬間、ロウラの手が荷台を離れた。傷ついた腕で、その喉を掴むところまで思い浮かべた。
何もできずに麦が焼けるのを見ていた。その苛立ちを、この男へ叩きつけたかった。
男はロウラを見て、近衛の背へ隠れた。
「次に、どこを燃やす気だった」
自分でも驚くほど低い声が出た。手は男ではなく、荷台の板を掴み直していた。
サビナが男の腰から壺を外す。
「詰所で聞きます。他の倉へも、見張りを回しました」
リネアがロウラの肩へ降りた。白い前足の先が、煤で黒くなっている。
「ぼく、洗わないと誰だかわからなくなる」
「翼の生えた猫は、そう何匹もいねえよ」
ロウラは濡れた布で、その小さな足を拭いた。肉球が掌へ当たる。戻ってきた重さを確かめるように、少し長く触れていた。
*
朝には、配給倉は石壁だけになっていた。
水を浴びた灰の中に、麦が見えた。拾おうとして指を入れると、黒い粒が崩れる。いつもなら腹が鳴る焼けた麦の匂いが、今は吐き気を誘った。
残った麦袋は別の倉へ移された。セヴァンが帳面を持って行き来し、ロウラは荷車から袋を受け取った。左腕には包帯を巻き、重さを右腕へ寄せる。咳をするたび、肋骨が痛んだ。
一袋置くたび、焼けた倉を振り向きたくなった。見ても増えない。それがわかっていることと、見ずに働けることは違った。
隣ではミレアとティロが、破れた袋を縫っていた。包帯を届けに来た二人を、ファルコがそのまま仕事へ回したのだ。
「袋が済んだら弓弦だ。包帯も足りん。昼までに追加を頼む」
商人が言うと、ミレアは針を止めた。
「朝から昼までなら、途中で休みます。その時間も賃金に入れてください」
「休んでいる間は、働いていないぞ」
「止めなければ縫い損ねます。麦をこぼす袋でも、同じ値段で受け取りますか」
ファルコは袋の縫い目を見た。
「休憩込みだ。二人交代で休め」
ティロが姉の横で、小さく頷いた。
休むと言っても、二人は仕事を投げ出していない。直した袋には、もう麦が入っている。ロウラは自分の包帯を見た。休んでもいいと自分へ言うより、次の袋を持つほうが簡単だった。
「俺、昨日、初めて貰った賃金で取っ手を買ったんだ」
ティロが腰袋から鉄の戸金具を出す。煤だらけの指で擦ると、握るところが鈍く光った。
「工房の戸につける。青く塗る戸に。金具を先に買えば、穴の位置も決められるし、板の厚さも――」
「戸より先に、家賃よ」
ミレアが針を持ち直した。
「家賃は、取っ手のあとに稼ぐ」
ロウラは金具を見た。昨日、自分と同じ街でこの小さな買い物をした人間がいた。この街で働く人間の食べ物を、自分は守れなかった。
握り潰せば簡単に曲がりそうな鉄を、ティロは両手で腰袋へ戻した。
工房は、まだない。ティロはそれでも、買った金具を大事に持っていた。
セヴァンが戻り、ファルコへ帳面を開いた。
「袋の修理代を、ここへ書いてくれ。配給は、予定より減らすことになる」
「どれだけだ」
「ほかの倉の分を集めても、昨日決めた量は出せない」
倉の前には、空の袋を持った人が並んでいた。子供を抱いた女もいる。誰もが、運び込まれる麦袋を見つめていた。
係の男が、配給は昼からだと告げ、倉の扉を閉めようとした。
「待ったら、なくなるだろ!」
列の後ろから声が上がった。前の男が押され、女が子供を抱き直す。
ロウラは袋を置いた。
「押すな。前に子供がいる!」
係員へ誰かが飛びついた。扉が押し開かれ、人々が一つの入口へ殺到する。
女が転んだ。子供が腕を離れ、地面へ落ちた。その背を、人の足が踏んだ。
ロウラは人の間へ踏み込み、子供を胸に抱き込んだ。
立ち上がろうとして、右膝が痛みに崩れた。背中を押され、子供を胸に抱いたまま、横向きに倒れる。
「止まれ! 子供がいる!」
起き上がろうとした肩を、靴で踏まれた。息が詰まる。子供の頭を腕の中へ隠した。
前に人が倒れたことを、列の後ろは知らない。倉へ入ろうと、さらに押してくる。
痛む右脚では踏ん張れない。子供を守る腕も、地面につけない。
このままでは、子供も自分も踏み潰される。




