第35話 返らない声
次の矢は、ロウラの左足の前に刺さった。
歩幅を縮める。担架代わりの戸板が揺れ、横を歩くレトの手から血が垂れた。男の胸を押さえている布は、替えたばかりなのに赤い。
「盾をこちらへ! 店まで道を作れ!」
アウレナの声で、市兵三人が走ってきた。盾を上げ、戸板の東側につく。矢が板を打つ音が、すぐ耳元で響いた。ロウラは振り向かず、足元の石だけを見た。
石造りの店へ入るまで、あと四歩。入口の段差で戸板を持ち上げ、足側を運ぶ二人と高さを合わせる。暗い店内へ入った瞬間、背後で扉が閉まった。
届いた。
男の顔を見たロウラは、喜びかけた自分を恥じた。唇は血よりも白かった。屋根があるだけで、刺された胸が治るわけではない。
「診療所へ行く。ここじゃ止められない」
レトが言った。
ヴァレリアは男の手を握ったままだった。返事を待つように顔を寄せる。男は口を開いたが、喉から出たのは湿った息だけだった。
「殿下。運ぶ間、その手を離してください」
サビナに言われ、王妹はゆっくり指をほどいた。
ロウラには、その動きが見ていられなかった。自分が間に合わせていれば、こんなふうに手を離す必要はなかった。
店の裏口へ市兵が回り、盾を並べる。東の城壁に遮られた路地へ出ると、矢は届かなかった。そこから白壁の診療所までは、二十分ほどかかる。
ロウラは戸板を握り直した。急ぎたい。脚を大きく踏み出しさえすれば、その時間を縮められる。けれど男の息が一度途切れるたび、さっき傾いた戸板を思い出した。
速く動ける自分が、今は運ぶ邪魔になる。
「次、右へ曲がる。足の側から」
市兵と声を合わせて曲がり、次の段差を探した。見ていれば、まだ自分にできることがあった。
診療所では、医師が服を切り開く前に、待っていた女が卓の上の薬瓶をどかした。寝台が埋まっていたため、男をそこへ移した。
ロウラの手から戸板の重さがなくなった。
その軽さが怖かった。持っている間は、男を落とさないという仕事があった。今は壁際へ退くように言われ、血のついた指をぶら下げているしかない。
医師が胸の傷を確かめた。レトの手が布から離れ、別の布が当てられる。男の口が小さく動いた。
ヴァレリアが卓の横へ膝をつく。
「ここだ。聞こえてる。あたしはここにいる」
「こわい、です」
男は、それだけ言った。
王妹の顔から、残っていた笑みが消えた。
「ああ。ここにいる」
ロウラは入口の柱に手をついた。あの路上で、自分は間に合わせると言った。男はその言葉を信じて、鎖を拒んだ。皆に傷を渡さず、一人で刺された。
その人間が怖いと言っている。
もう一度、大丈夫だと言いそうになった。口の中で言葉を止める。さっきの約束を果たせていないのに、次の約束でこの男を黙らせたくなかった。
医師の手が止まった。
男の胸は動かない。ロウラは布の端を見た。呼吸で揺れるはずの、薄い端だった。
「まだ、手は温かい」
ヴァレリアが言った。
医師は男の首に指を当てたまま、首を横に振った。
ロウラは卓へ近づいた。さっきまで運んでいた人の肩に触れる。確かに温かい。これで終わりだというほうがおかしいと思った。
レトが血のついた布を畳み、傷の上に置いた。止血のために押さえ直さなかった。
その手を見て、ようやくわかった。
「名前は」
自分の声が、ずいぶん遠く聞こえた。
「ルフィオ」
サビナが答えた。
「緋環隊のルフィオです」
ロウラは名前を覚えようとして、顔を見直した。路上では傷しか見ていなかった。あの腕を掴めるか、あの血を止められるか。そればかりだった。
名前を知ったのは、死んだあとだった。
「あたしが、袖じゃなくて」
ロウラは言いかけて止まった。手首を掴んでいれば。先に殴っていれば。柱を支えられていれば。どこまで戻れば、ルフィオは息をするのか。
答えを出せば、戻せる気がした。
医師が何か取りに行けと言えば走れる。何も言われないことが耐え難く、その口元を見続けた。
けれど医師は、次に来た負傷者の名を呼んだ。ロウラは呼び止めそうになった。ルフィオを終わったことにしないでほしかった。向こうの寝台で呻く声を聞き、伸ばしかけた手を下ろした。
ヴァレリアはルフィオの手を両手で包んでいた。その腕にも、鎖が分けた浅い傷が残っている。
鎖を抜けなければ、死なずに済んだのではないか。
考えた瞬間、ロウラは王妹を見た。責める言葉が喉まで来て、相手の顔を見て引っ込んだ。ヴァレリアも、同じところから動けずにいる。手を離したくない。離したら、自分がこの死を認めたことになる。
ロウラは血のついた指を服で拭った。拭いてから、何をしているのかわからなくなり、やめた。
サビナが戸口へ向かった。
「殿下。残った者を集めます。私から伝えます」
ヴァレリアは頷いた。返事をするまでに、二度、唇を閉じ直した。
十二人いた輪は、王妹を含めて十一人になった。
捕らえた男は、市兵の詰所で両手を縛られていた。
ロウラが入ると、男は折れた手首を抱えて壁に寄った。
「俺は殺すつもりじゃなかった。抜けたのは、あいつだ」
ロウラは一歩で男の前へ行き、襟を掴んだ。壁に頭が当たり、男の歯が鳴る。
「名前はルフィオだ」
右手を上げた。これならできる。届く距離にある。さっき掴み損ねた腕も、今なら逃げられない。
男は顔を背けた。
その怯えを見ても、手は下がらなかった。ルフィオも怖いと言った。この男が同じことを言ったら、自分は止まるのか。止まりたくなかった。
「ロウラ。殺したあとで、誰に聞く」
アウレナが背後で言った。
「仲間がいるかもしれない。次に狙う場所を、私は知りたい」
殺せば、こいつはもう誰も刺さない。その一点だけを選べば、ほかを考えなくて済む。
ここで殴っている間にも、別の男が誰かの背後へ回っているかもしれない。
上げた手を下ろした。襟を放すと、男は床へ落ちた。
許したつもりはない。息をしていることさえ腹立たしかった。
「切った縄と、見つけた連絡符も見せてくれ。あいつがどこから入ったか、聞きたい」
ロウラはアウレナに言った。声が震え、最後だけ言い直した。
市兵が持ってきた縄の切り口を見て、男は口を閉じた。
アウレナは男の正面に椅子を置いた。
「門か、川か。まず、それを答えろ」
ロウラは横へ退いた。男を自分の手から遠ざけるために、壁まで下がった。
夕方までに、東門の訓練場は引き払われた。
ロウラは市兵とともに、負傷者を運ぶ裏道を歩いた。狭い角では戸板を使い、四人が曲がれるか確かめた。段差の石に白い線を引き、途中の店に布と水を置いた。
大きな戸板を抱えてきたティロが、曲がり角で壁にぶつけた。
「丈夫そうなのを選んだんだけど」
「丈夫な戸は、だいたい重い」
レトは反対側を持ち上げた。
「次は店ごと持ってくるなよ」
ティロが真面目に戸の幅を測り始めた。ロウラも端を持った。今度は角を通れた。
笑いかけて、唇が止まった。自分だけが、もう次のことをしている。さっきルフィオを運んだ腕で、別の戸を運んでいる。
レトは何も言わず、地面に戸を置いた。
やめて診療所へ戻りたかった。まだ温かかった手を思い出すと、ここにいることが薄情に思える。
そのとき、肩に包帯を巻いた市兵が裏道へ来た。昼に矢を受け、戸板を取り落とした男だった。
「ここでいいのか。明日、俺はこの角に立つ」
「傷は」
ロウラは包帯を見た。
「腕は上がらない。道は教えられる」
ロウラは白い線を指した。角を曲がるときの向きを説明し、男が自分の足で確かめるのを見た。
ここを直しても、ルフィオは戻らない。戻らないから何もしない、と決める勇気もなかった。
西の空が赤くなる頃、アウレナがやってきた。
「密偵は川から入った。受け取り役が、今夜、東門の外の水路に来る。連絡符と合う印も話した」
ロウラは立ち上がった。
「そいつも捕まえる」
「密偵の供述だ。こちらを誘っている可能性はある」
アウレナは城壁を見た。
「門は開けない。見張りに水路を監視させる。来たら、まず人数を確かめる」
ロウラはすぐに外へ出る道を考えていた。足を止めると、古傷のある右脚が痛んだ。怒りで忘れていた痛みだった。
昼も、間に合わせるつもりで跳んだ。
「あたしも壁へ行く。どこを見るか、教えてくれ」
ロウラが言うと、アウレナは東門の上を指した。
診療所の前を通ったとき、扉の隙間から、ヴァレリアが見えた。白い布のかかった卓の横に座り、サビナの差し出した水を受け取っていた。
ロウラは足を止めかけた。何か言うべきだと思ったが、何も浮かばなかった。
門へ向かった。ルフィオの名前を、歩きながら一度、口の中で言った。
日が落ち、城壁の上でリネアが翼を畳んだ。
「ロウラ。水路のところ、人がいる」
ロウラが下を覗くと、葦の間で小さな灯が二度揺れた。
その直後、足の下で重い木を引きずる音がした。
「門を開けるな! 誰が動かした!」
アウレナが城壁の内側へ駆け寄った。ロウラも反対側から門の外を見下ろす。
外門の扉が開いていた。その向こうから、槍を持った敵兵が走ってくる。門を守っていた市兵二人は、地面に倒れて動かなかった。
敵は外門と内門の間へ入り、まだ閉じている内門へ押し寄せた。
その内門まで、下から持ち上がり始めた。
「地下の機構室だ! 巻き上げを止めろ!」
アウレナが叫ぶ。門の下にできた隙間から、槍の先が街の側へ突き出された。
誰かが、街の内側から敵を入れようとしている。
「あたしが行く!」
ロウラは階段へ走った。右脚の痛みに手すりを掴み、次の段へ足を下ろす。
内門の隙間は、もう人の膝の高さまで開いていた。腹這いになった敵兵が、一人、街の側へ潜り込んでくる。
内門が開き切れば、外で待つ敵兵まで街へなだれ込んでくる。




