第34話 十二人の傷
「ねえ。あの人、縄を切ってる!」
翼のある黒猫リネアが、木の足場の裏で叫んだ。
東門近くの市場で、王妹ヴァレリアと近衛十一人が護衛訓練をしていた。近衛三人は足場に、王妹と八人は下にいる。ロウラは荷を放り出した。
足場へ叫ぶ。
「上の奴ら、降りろ!」
床が傾いた。三人が走った先で、梯子が外れる。ロウラは支柱を掴み、床を押し戻そうとした。継ぎ目から木が裂けた。
床板と兵が落ちた。二人は仲間に受け止められた。残る一人が、積まれた鉄金具へ落ちる。尖った端が脇腹へ刺さった。
王妹の腕で、青銅の鎖状腕輪が鳴った。
レリック《絆鎖》。互いに同意して手を触れた者どうしを結ぶ腕輪だ。上限は持ち主を含め十二人。三十歩以内にいる仲間が新しい傷や急な疲労を受けると、その負担を全員へ分ける。
王妹と近衛十一人は、訓練前に手を握り合っていた。いま、兵の深い傷が浅くなり、ほかの十一人の腹にも同じ傷が生まれた。十二人の衣服へ血が滲む。
一人では死ぬ傷も、分ければ助かる。ただし、傷の総量は減らない。全員に手当てが要る。古傷や病は分けられず、傷を治す力もない。
救護を担う葬儀屋レトが包帯を渡した。ロウラが布を傷へ当てると、兵が手首を掴んだ。
「手、離さないでくれ」
近衛の懇願に、ロウラは頷いた。
「離さねえ」
*
縄を切った男が走り出た。ロウラは市警隊長へ叫んだ。
「アウレナ! そいつだ!」
アウレナが兵を回し、男の向かった路地を塞いだ。
リネアが屋根から叫んだ。
「戻ってくる! そっちに行ったよ!」
男は負傷者のいる広場へ引き返した。
王妹の副官サビナが進路へ立った。腹の傷に顔を歪め、膝が落ちた。
男はその横を抜け、ロウラの手を掴んでいた近衛を背後から引き起こした。
首へ小刀が当たる。布がロウラの指から落ちた。男が叫ぶ。
「剣を捨てろ。王妹、お前もだ」
男は近衛を引きずり、倒れた梁の端を回って退いた。梁の向こう、一歩先に人質がいる。その背後で男が左腕を胸へ回し、右手の小刀を喉へ当てていた。
ロウラは梁の手前に立った。腰の高さの木を越えなければ、刃を握る手へ届かない。ヴァレリアとサビナは、彼女の左後ろにいた。
ロウラが梁へ足をかけた。
「そいつを離せ」
男の口角が上がった。待っていた顔だった。
男が刃を引くと、人質の首へ赤い線が走った。ヴァレリアの首にも現れ、サビナと近衛たちも喉を押さえる。
ロウラが足を止めると、男は十二人を見回した。
「そうか。お前ら全員か」
ヴァレリアは剣を置いた。
「王妹を傷物にして、上官へどう言い訳する気だい?」
男は答えず、顎で二人を指した。
「お前と副官だけ、こっちへ来い。ほかは動くな」
男が刃を押し込むと、ヴァレリアの喉からも血が垂れた。サビナが剣を捨て、ロウラは梁から足を下ろした。
一人を救った力で、十一人まで捕まっていた。
握った拳を隠した。殴れば済む距離なのに、動きたいと悟られることさえ怖かった。
*
ヴァレリアが梁の端へ向かい、サビナが続いた。ロウラは二人を呼び止めた。
「行くな。あんたらが捕まったら、人質は用済みだ」
王妹は男を見たまま、口元を歪めた。
「ここに残ったら、皆を切るだろうね。十一人も巻き添えにするとは、あたしも大した女だ」
笑っている。ロウラには、そう見えた。
「笑ってんじゃねえ! あんたが連れてきた連中だろ! いまも首から血が出てるんだぞ!」
男が刃を動かした。十二人が同時に呻く。
ロウラは口を閉じた。助けを呼べば、集まった者まで人質に取られかねない。怒鳴ることも、誰かを呼ぶこともできなかった。
ロウラは王妹の腕輪を指した。
「つながりを切れ。全員を人質にさせんな」
ヴァレリアの笑みが消えた。
「あたしからは切れない。相手がつながりを拒まない限り」
人質の近衛が男の腕を喉から引き離そうとした。
「殿下。俺が、抜ければ」
人質の申し出を、ヴァレリアが怒鳴って遮った。
「喋るな! 次に切られたら、もう誰にも分けられない!」
兵は、首へ当たった刃を見た。
「俺の首で、殿下まで死ぬんですか」
王妹は返事をしなかった。駆け寄ろうとする腕をサビナが掴む。
ロウラは、小刀を握る男の右手を見た。人質が頭を下げた隙に、梁を越えてあの手を掴む。刃を喉から引き離すのだ。
人質はロウラを見た。
「手を離すなって言って、すみません」
ロウラは近衛の目を見た。
「今度も、あたしが掴む」
近衛は首を振った。
「もう、大丈夫です」
唇が震え、頬が涙で濡れていた。助けてほしい顔のまま、大丈夫だと言う。その嘘を聞き流したら、この男は自分を捨ててしまう。ロウラには、それが分かった。
ロウラは梁に手を置き、近衛へ言った。
「やめろ。あたしを見ろ。あたしが跳んだら、頭を下げろ。そいつの手を掴む」
近衛が息を詰めて尋ねた。
「間に合いますか」
ロウラは即答した。
「間に合わせる」
小刀が兵の顎を持ち上げた。ロウラが動けば、下げるより早く喉を切られる。
近衛はヴァレリアへ顔を向けた。
「殿下。俺の傷を受け取らないでください。あなたの傷も、俺には渡さないでください」
近衛がつながりを拒むと、腕輪から鎖の音が一つ消えた。
*
男は刃を当てたまま命じた。
「王妹、歩け!」
人質の喉を、また切ろうとする。
ロウラは梁を跳び越えた。近衛が頭を下げ、小刀が喉から離れる。ロウラは男の右手へ手を伸ばした。指に袖が引っかかる。
掴んだ。間に合った。
布が裂けた。
男の手がすり抜けた。近衛を抱えたまま、小刀をその胸へ突き立てる。
王妹たちは傷つかなかった。兵だけが目を大きく開けた。
男が刃を抜いた瞬間、ロウラはその手首を折った。小刀が落ちる。拳を振り上げたが、崩れた兵が膝へ当たった。
拳を止め、兵を抱えた。
「レト!」
市警が男を倒した。ロウラは兵から目を離せなかった。息に、ひゅうと音が混じる。
ロウラは兵の胸へ手を当てた。
「なんで胸に入ったんだよ。首は止めた。止めたんだぞ!」
レトがその隣へ膝をついた。
「動くな。布を当てる」
仕立職人ミレアが駆け寄り、布を渡した。
袖ではなく手首を掴めていれば。もう一歩近づいていれば。役に立たない考えばかり湧く。押さえた血は指の間から逃げていく。
兵の目は開いていた。ロウラを見ようとして、焦点がずれる。
王妹が隣へ座り、兵の手を握った。
「つながりな。もう一度、あたしの手を取れ」
レトが王妹を制した。
「いま動かすな!」
ヴァレリアは握った手を離さなかった。
「聞こえるかい。あたしだよ。十一人いる。あんた一人にするんじゃなかった」
腕輪の音は戻らない。兵は手を握り返せなかった。同意がなければ、つなげない。
サビナが肩へ手を置くと、ヴァレリアは歯を食いしばって振り払った。
「まだ聞こえてる!」
サビナは王妹の前へ膝をついた。
「ヴァレリア。道を空けて。運びます」
レトがロウラを止めた。
「その姿勢のままだ。傾けるな。担架を持ってこい!」
染め職人の少年ティロが、店の戸板を引きずって来た。
「これでいい? 俺の戸じゃないけど、いま、これしか」
レトがティロへ頷いた。
「いい。布を敷け」
ティロが落とした布を、ミレアが拾って広げた。
*
元密偵のサビナが、男の袖から王国密偵の連絡符を見つけた。市警に押さえられた男が声を上げる。
「そいつが勝手に抜けたんだ。俺は王妹を取るだけだった!」
ロウラが男へ踏み出すと、背後で近衛が呻いた。
ロウラは男に背を向けた。近衛を乗せた戸板の頭側を持ち、市警三人が残る角を支える。レトが胸へ布を当てたまま、担架の横を歩いた。
診療所は担架で二十分の距離だ。まず市場の道を渡る。ロウラは人垣へ叫んだ。
「どけ! 道を空けろ!」
頭上の看板へ矢が刺さった。続いて、石畳で矢尻が跳ねる。王国軍の試し射ちが城壁を越え、通りへ届いていた。
アウレナが、レリック《一声の笛》を吹いた。騒音の中でも短い命令を届ける笛だ。
「建物に入れ!」
人々が店へ駆け込む。ロウラたちの担架は、通りの真ん中に残った。向かいの石造りの店まで十歩。そこへ入れば、ひとまず矢を避けられる。
ロウラが足を速めると、近衛の胸から咳が漏れた。レトの布が赤く濡れる。
「走るな!」
レトがロウラを止めた。
「揺らすと息ができなくなる。担架を水平に保て!」
隣で頭側を持っていた市警の肩へ、矢が突き立った。
市警の手が外れ、戸板が傾く。ロウラは空いた角を掴み、両手で支えた。近衛の体をレトが押し戻す。その口から血が溢れた。市警は肩を押さえて退く。
目が合った。近衛の唇が動く。
手を離さないと言った。なのに、いまは指を握ってやることさえできない。戸板から片手でも離せば、また傾く。
レトが耳を寄せた。
「呼吸が弱い。ここで止まるな!」
ロウラは店までの石畳を見た。あと八歩。その途中へ、また一本、矢が落ちた。
走れば、この男を殺す。立ち止まれば、次の矢が誰かを貫く。
ロウラは足側の二人へ声を絞った。
「高さを合わせろ。あたしと同じ速さで歩け」
泣くな。足元を見ろ。いま目を閉じたら、この男を落とす。
戸板を水平に保ったまま、一歩進んだ。
頭上で、次の矢が鳴った。




