第32話 城壁の値段
王国軍の先鋒が来るまで、あと五日。
ロウラは、東門の地下へ下りた。ここには、門の鉄格子を上げ下げする仕掛けがある。
鎖を巻き取る軸の下で、職人が木屑を拾っていた。
「五日で直す。だから今夜は触るな」
城壁の修理を取り仕切る石工代表グラウコが、灯りを掲げた。軸を支える木の台に、縦の割れ目が走っている。
「格子は下りるんだろ」
「下りる。だが上げ直すとき、この台が持つか分からん」
救護も担う葬儀屋レトが、仕掛けを覗いた。
「下ろして終わりじゃないんだな。外へ打って出るにも、格子を上げる必要がある」
「だから直すと言ってる」
ロウラは鎖に伸ばした手を止めた。引けば、木台を壊すかもしれない。
「あたしが敵を止めてる間に、上げられるようにしろ」
「その間に修理するつもりはない。敵が来る前に直す。お前がいつまで戦えるか、分からんからな」
ロウラは古傷のある脇腹へ手を当てた。
*
翌朝、評議会の広間には、武器より先に帳簿が集まった。
王妹ヴァレリアの元参謀フェレンスが地図を示す。南は川、西は崖。大軍が攻めやすいのは北壁と東門だ。
「市警と、訓練を受けた民兵は約三百五十。各組合と解放民の作業隊まで加えれば、八百から九百五十人です」
「九百人で壁を守れば、持ちこたえられるか」と穀物商代表セルギオ。
「増えるのは働ける人数です。兵が九百人になるのではありません。荷運びを槍の列へ入れれば、荷も運べなくなる」
「敵は五千。城外で戦えば負けます。壁を使い、守る場所を絞る。食糧が続く間に、包囲を解く手段を作らなければなりません」
評議会議長デキムスは、謀反の罪で追われる王妹ヴァレリアを軍事顧問に、フェレンスを防衛参謀に任じた。包囲の間だけの任命だ。兵の指揮は市警隊長アウレナ・トルクが執る。
「包囲が終われば、お二人の任も終わります」
「ああ。追い出す日まで先に決めるなんて、歓迎の仕方が気に入ったよ」
議長は王妹の軽口を聞き流した。
河運代表メルカは、船を負傷者と穀物の運搬へ回すと約束した。セルギオは穀物の備蓄量を告げた。
「市の金で、全部買えるのか」
セルギオの問いに、商人代表タルシアが答えた。背後には監視の市警が立っている。
「買えません。城壁を直し、兵へ払い、食糧も相場で買えば、包囲が終わる前に金が尽きます」
彼女は王国へ情報を流した罪で拘束され、いまは監督下で防衛に協力している。
「私の商館の倉を、配給所に使ってください。運搬の費用も出します」
「協力は記録します。罪の審理とは別です」とデキムス。
「分かっています」
セルギオが備蓄の欄へ線を引いた。
「備蓄の半分を、いま出す。代金は戦後でいい。ただし盗まれた分まで食費に入れるな。袋を数える者をつけろ」
解放民代表ダレスは作業隊を、診療所を預かるイレネは寝台を提供する。グラウコは石工を東門と北壁へ振り分けた。灯火団の兵站係セヴァンが、人数と必要な荷車を書き取る。
*
昼の東門では、城壁修理の石を運ぶ荷車と、市を離れる人々の荷車がすれ違っていた。
市警・民兵隊長アウレナが、レリック《一声の笛》を吹いた。短い命令を、周囲の騒音にかき消されず届ける青銅笛だ。
「荷車を止めろ!」
石を打つ音の中でも、その一言だけはロウラの耳へはっきり届いた。民兵が後続を止め、壊れた車輪を引きずる荷車を道の端へ寄せる。
隊長は荷台で車輪を調べる縄職人コルヴォを見た。
「コルヴォ。縄だけ見てろと言ったはずだ」
「車輪も壊れてた」
「知ってる。だから修理場へ運んでる」
壊れた物を放っておけない男は、まだ降りない。隊長が腕を引いて降ろすと、ようやく持ち場の滑車へ向かった。
ロウラは別の荷車から、石を下ろそうとした。腹へ力を入れた瞬間、古傷が鋭く引きつった。
石は動かなかった。隣の石工が手を伸ばす。
「こっちから持つよ」
「いい。持てる」
もう一度力を込めたところで、レトが手首を引いた。
「敵が来る前に寝台を埋めるな」
「このくらい」
「昨夜から、そのくらいばかりだ」
二人の石工が棒を差し、石を下ろした。ロウラは空いた両手を見ていた。
偵察に出ていた翼のある黒猫リネアが、門脇の壁へ降りた。白い足先についた泥を舐める。
「北の畑にね、溝があったよ。東の道は荷車が二台並べるくらい。でも、草がいっぱいのところは見えなかった」
フェレンスは地上の測量記録と比べ、溝の深さを調べる斥候を送り出した。
「空からなら全部分かるのかと思った」とロウラ。
「だって、草の下は見えないもん。下から見てもらわないと」
リネアは前足を舐めるのをやめた。
「ロウラ、さっき痛かったんでしょ?」
「見てたのかよ」
「うん。痛いの、隠してないかなって」
ロウラは目を逸らした。
*
夕方、宿を貸してくれている商人ファルコの工房へ行くと、染め職人ティロが布を桶から引き上げていた。ロウラと一緒に逃げてきた、元奴隷の仲間だ。
「これ、壁の上で振るんだって。敵が来たら赤! 遠くからでも、ぱっと分かるだろ?」
桶の縁に、赤く変わった《染まり石》が置かれていた。布が乾いたときの色を先に確かめ、染め直しを減らすための石だ。
ロウラが脇の白布へ触ると、ティロに手を叩かれた。
「あっ、触っちゃだめ! 指、まだ赤いじゃん。白いとこが汚れるよ」
奥では、同じく逃亡を共にした仕立職人ミレアが、担架に張る布を縫っていた。保護している少年ノアが、隣で紐を並べている。
「ノア。子どもを南の船へ乗せるらしい。今なら出られる」
ロウラが言うと、少年の手が止まった。
「ロウラも乗る?」
「あたしは残る」
「ミレアは?」
ミレアは針を布へ刺して置いた。
「私は、まだ縫う物があるの。船へ乗るなら、一緒に行く大人を探しましょう」
ノアは揃えた紐を崩し、一本だけ握った。
「知らない人と行くの?」
ロウラは答えられなかった。危険から遠ざけても、一人にしてしまう。
「出るかどうかは、今夜、みんなで決めよう」とミレア。「先に、手を洗ってきて」
少年が裏の水桶へ向かうと、ロウラは戸口まで追い、そこで止まった。
「あたしが門で止める。だから二人も、ノアと船に」
「でもさ、敵がどこから来るか、ロウラに教えなきゃ。この布があれば、遠くからでも知らせられるよ」
ティロの返事は早かった。
「俺だって、できることあるよ。ねえ、この布、北の壁まで持ってって」
ロウラは布を取らなかった。
「死ぬかもしれねえんだぞ!」
ミレアの膝から糸巻きが落ちた。ティロは布を桶へ戻した。
「分かってるよ。俺だって怖い。布を振っても、間に合わなかったらどうしようって、さっきから考えてる」
ティロは赤い指を水へ浸した。
「でも、誰かが染めなきゃ。俺が逃げたら、ほかの人がやるんだよね? その人は、ここにいていいの?」
「そうじゃねえ!」
ロウラが戸を掴むと木が軋んだ。慌てて離す。
「やっと寝られるようになったんだ。ノアも。あんたらも、仕事ができて、金をもらって。やっとだろうが!」
ミレアが立ち、転がった糸巻きを拾った。
「だから、ここをなくしたくないの」
窓の外では、石工が石を壁へ運んでいた。工房にも仕事が残っている。ロウラは言い返せなかった。
ティロが乾いた合図布を二束、作業台へ置いた。
「これ、持ってってよ。ロウラが運んでる間に、俺、もう二枚染めるから」
ロウラは布を抱え、出口へ向かった。
壁には青い戸が立てかけてある。ティロとミレアが、いつか自分たちで開く工房に使う戸だ。まだ片側の金具がない。
「その戸、ちゃんと使えよ」
「使うよ。絶対。だからさ、ここがなくなったら困るんだ」
ティロは次の布を桶へ沈めた。
*
ロウラが北壁へ布を届けたとき、門外から馬が駆け込んできた。
「街道が塞がれた! 王国の騎兵だ!」
斥候が壁の階段へ走り、ロウラも追った。街道には松明が集まっている。
「五日じゃなかったのか」
階段の上で、市警隊長アウレナが斥候を問い詰めた。
「人数は?」
「五十ほど。街道を進んでいた荷車を、引き返させています。こちらを出た商人の車も」
今朝すれ違った荷車が、道の向こうから戻ってくる。荷台に子どもを乗せた車もあった。
まだ東門の修理は終わっていない。ロウラは抱えた赤布を隊長へ差し出した。
「使え」
アウレナは布を受け取り、民兵に掲げさせた。続けて笛を吹く。
「東門を閉めろ!」
逃げて戻った最後の荷車が入ると、外扉が押し閉じられた。地下から職人が駆け上がってくる。
「修理を止めるのか!」
「続けろ。地下への入口に兵を置く」
アウレナがロウラを振り向いた。
「灯火団を今夜から使いたい。修理中の仕掛けを守れ。北壁に兵を回すため、市警を一部引き上げる」
「分かった」
ロウラは階段を駆け下りた。脇腹が痛み、途中から歩いた。門の内側で荷を確認していた兵站係セヴァンを見つける。
「全員、東門に集める。地下の警備だ。ノアはミレアのところから出すな」
セヴァンが連絡に走る。ロウラは地下へ下りる戸口に立った。
外扉の向こうで、馬の蹄が止まった。
「王命を伝える! 責任者を出せ!」
ロウラは戸口から動かず、門の上へ目を向けた。アウレナが兵を押しのけ、城外を覗き込んだ。




