第31話 裏切り者の席
「その書状は、私が書きました」
商人代表タルシアは自分の席へ座らず、評議会の机の前に立った。昼の広間には七人の評議員が集められている。防衛契約を結んだばかりのロウラも、灯火団の団長として呼ばれた。隣にはレトとカッシウス。リネアは肩にいる。
議長デキムスが、サビナの捕らえた密使の書状を開いた。
守備兵と民兵は約三百五十。穀物倉の備蓄。東門の古い外扉と、北壁の補修箇所。末尾には、ヴァレリアたちの引き渡しを含む降伏条件の相談があった。読み上げられるたび、石工代表グラウコの顔が赤くなる。
「俺たちが調べた傷みを、攻めてくる軍へ教えたのか」
「交渉のためです。市の情報を渡す代わりに、市民へ危害を加えず、商いも続けさせると約束させたかった」
「門のどこを壊せばいいかまで書いて!」
グラウコが椅子を蹴って立った。デキムスは手を上げて制し、タルシアに尋ねた。
「いつから王国へ連絡していた」
「使者が来る前から。商いに使う連絡路で、入城後も市民の生活を守る条件を求めました。兵数と備蓄は、前の書状でも知らせています」
「昨日の採決では拒否と決まった。その後も書いたのですね」
「議長の一票で、五千人に勝てますか!」
タルシアの声が広間を叩いた。
「市場が燃えたら、職人は何を売るの。倉を焼かれたら、子どもに何を食べさせるの。家族を失った人に、法を守りましたと言えば済むんですか!」
タルシアはヴァレリアを振り向いた。
「あなたたちを渡せば、少なくとも軍は攻めない。私は、この市を救いたかった」
ロウラは椅子の縁を掴んだ。朝、ノアが帰りたいと言った寝床も、タルシアは守ろうとしている。そのために、ヴァレリアたちを差し出そうとしていた。
「渡された人間は、帰ってこなくていいのか」
タルシアがロウラを見た。
「王国へ渡した奴が殺されても、市が助かりゃそれでいいのかよ」
「よくありません! いいわけがないでしょう!」
タルシアは机へ両手をついた。返事を続けようとして、唇だけが動いた。
広間の扉が開き、タルシアの屋敷の書記が、市警に伴われて入ってきた。議長に求められた通信記録と、王国からの返書を持っている。タルシアが呼び出された後に屋敷へ届いた、最初の申し入れへの返事だという。
サビナが返書の軍務印を確かめ、デキムスが封を切った。タルシアにもロウラにも聞こえるよう、読み上げる。
入城後、自治憲章を停止する。河港と主要商館の資産を王国が接収し、王の任命する総督を置く。評議会は総督の命令を執行する補助機関とする。
「市場の営業は認める、とあります」とタルシア。
「船を誰の命令で出す?」
河運代表メルカが返書を取り、同じ箇所を指で追った。
「荷も船も王国が押さえる。売ってよいものまで総督が決める。これを商いが続くと呼ぶのかい」
タルシアは返書を奪い返すように取り、端から端まで読んだ。紙が机に擦れる。もう一度、頭から読む。
「商館を返す時期が……書いてない」
カッシウスが言った。
「最初から、返す約束をしてないんだ」
タルシアの口元が歪んだ。声を出すまいと奥歯を噛み、鼻で息を吸ったが、堪えきれずに漏れた。
「残すために書いたのに」
返書が皺になった。
「何もかも持っていかせるために、門の弱いところまで教えたの……?」
誰も答えなかった。タルシアは返書を置き、自分の書状の方へ手を伸ばした。グラウコがその手を押さえる。
「破るな。何を送ろうとしたか、残しておく」
「分かっています」
タルシアは手を引いた。ロウラも、書状を破りたい気持ちを抑えて椅子から手を離す。朝はこの市を守ろうと契約を結んだ。その同じ市で、ヴァレリアたちを渡す話が進んでいた。親指に残る朱肉を、膝の上で擦った。
*
デキムスはタルシアを市警の監視下に置き、書記と密使を別々に聴取するよう命じた。無断の通信は禁じ、罪の審理は改めて行う。タルシアは立ったまま、書状から目を離せなかった。
ヴァレリアが近づき、彼女の椅子を引いた。
「座りな。立ってたって、書いた字は消えないよ」
「触らないで」
タルシアが王妹の手を払った。
「あなたを差し出すと書いたのよ。なぜ、そんな顔で私に話せるの」
「裏切ったからって、昨日までの味方が別人になるわけじゃないさ。あたしは、まだあんたと話したいんだよ」
ヴァレリアは笑い、椅子の背をもう一度押した。タルシアは座らない。
「私を許したつもり?」
「許してないよ。あたしとサビナとフェレンスを渡す算段は、忘れやしない。だから、あんたが何を考えて書いたか、まだ聞く」
「もう話したくない!」
「そうかい。なら、あたしが喋る番だ」
タルシアが後ずさる。王妹の笑顔を避けているのに、ヴァレリアは距離を詰めた。
サビナが二人の間へ入った。
「殿下。席へお戻りください」
「ああ。椅子くらい――」
「今は、近づかないでください」
ヴァレリアはそこで止まった。許していないと言いながら、昨日と同じ距離で話そうとする。ロウラは、間に入ったサビナの背中を見た。止められなければ、王妹はまだタルシアを追っていただろう。
フェレンスが机の書状を広げた。二日前、荷車を止める作戦で倒れた元参謀は、椅子に座ったまま話す。
「拘束がまだ王国に知られていなければ、この連絡路を使えます。途絶えさせれば、タルシア殿が疑われたと勘づかれる」
サビナが頷いた。
「密使は南水門で船頭へ書状を渡す予定でした。船頭は商館の荷運び人で、王国軍の連絡役へ届ける契約です。まだ出航していません」
「じゃあ、届ける紙を替えられる」とカッシウス。
グラウコが机へ身を乗り出す。
「いま読んだ門の傷みは本当だ。嘘に書き換えても、向こうの斥候が見れば分かる」
「全部は替えません」とフェレンス。「東門の内側にある落とし格子は、動きますね」
「ああ。外扉は傷んでるが、あれは下りる」
フェレンスは東門の図を引き寄せ、外門のすぐ裏にある格子を指した。
「動かないと伝える。敵が外門を破り、この格子の下を通って内門へ進んだところで下ろす。内門は閉めておく。先頭の兵は前にも後ろにも進めず、外にいる後続も入れなくなります」
ロウラは図の二つの門を見た。入市のとき通った、壁に挟まれた狭い空間だ。外門を破らせるなら、その先で止める者がいる。
「あたしは、そこを守るのか」
「配置は市の指揮官と決めます。今は、敵をどの門へ向かわせるかの話です」
デキムスが図と返書を並べた。
「通信路を確かめ、市の監督下で文面を作る。協力しても、無断で情報を送った罪は消えません。それでも協力しますか、タルシア」
タルシアは、まだ開いたままの返書を見ていた。
「その嘘で、何人死ぬの」
「分かりません」とフェレンス。「ただ、門を全部同時に攻められるより、守る兵を集められます」
タルシアは椅子へ座った。筆記具を握ったが、紙にはつけなかった。
「まず、船頭との連絡を確かめて。届かない嘘を書いても、意味がないわ」
*
サビナはリネアと南水門へ向かった。ロウラたちはフェレンス、グラウコ、ヴァレリアと荷車で東門へ移る。タルシアは市警の監視下で、評議会に残された。
門の脇の小部屋で、グラウコが模型の外扉を開いた。その奥へ指を入れ、指の後ろで格子を下ろす。前には、閉じた内扉がある。
「ここで敵を止める。門の上からも攻撃できる。格子を動かす仕掛けは地下だ。そこへ入られて、勝手に上げられたら罠にならん」
ロウラは模型へ手を伸ばしかけた。
「触るな」とグラウコ。「お前の指で門を壊すな」
「壊さねえよ」
「その指が握った椅子の縁、広間で欠けたぞ」とレト。
ロウラは手を膝へ引っ込めた。罠へ誘えたとしても、中へ入った兵と戦うのは自分たちだった。
夕刻、サビナとリネアが戻った。翼猫の白い足先には屋根の埃がついている。
「船頭は、男が捕まったことを知らなかった」とリネア。「ぼくは屋根から見張ってた。サビナを見て、誰かが知らせに走ったら分かるように」
「商館の代理と名乗り、使いを替えると伝えました」とサビナ。「船頭は待っています。屋敷の書記に運ばせ、市警が受け渡しを見届けます」
評議会から市警がタルシアを連れてきた。グラウコが門の状態を、フェレンスが守備兵の数を確認する。カッシウスが読み上げる文面に従って、タルシアが書き直した。
外扉の傷みも、備蓄も、守備兵の数も元のまま。落とし格子についてだけ、腐食により動かないと加える。
「本当のことをこんなに渡していいのか」とロウラ。
「兵数と備蓄はすでに渡っています。外扉の傷みも斥候に確かめられる」とフェレンス。「そこまで当たっていれば、外から見えない格子の話も信じやすくなる」
タルシアの筆が最後の行で止まった。
「私の名で送るのね」
「向こうが信じている差出人は、あんただ」とカッシウス。
タルシアは名を書き、筆を置いた。机に落ちた涙を袖で拭く。ヴァレリアは声をかけようとしたが、サビナの視線を受けて黙った。
封をした書状を、市警がサビナへ渡した。
そのとき、門外から騎馬の斥候が戻ってきた。降りるなり水を求め、半分飲んでから報告する。
「王国軍の先鋒が、こちらへ進路を変えました。荷車を置いて先行した部隊です」
フェレンスが斥候の示した地点を、地図で確かめた。
「昨日の十日という見積もりは主力です。この部隊なら、五日後に届く」
グラウコが模型の格子を上げた。タルシアは筆記具を袋へ戻したが、紐をうまく結べず、膝へ置いた。
五日。ロウラは窓の外を見た。朝、皆で出るかどうかを決めた門を、旅人の最後の荷車が通っていく。
サビナは封書を懐へ入れ、市警と戸口へ向かった。屋敷の書記へ渡すためだ。敵を東門へ誘う書状が、これから市の外へ出る。
ロウラは模型へ顔を戻した。
「地下へ下りる道を見せてくれ」




