第30話 出られる門
「お前はどうしたい」
レトに問い返され、ロウラは答えに詰まった。評議会の広間では、役人が燭台を片づけている。王国の使者は去ったが、灯火団の仲間は席に残っていた。
「あたしは残る。あんたらは、ノアを連れて逃げろ」
「俺たちの答えは聞かないのか」
「五千人来るんだぞ!」
ロウラの声で役人の足が止まった。
「負けたら、また捕まるかもしれねえ。ミレアもティロも、やっと働く場所ができたんだ。ノアだって、ようやく眠れるように――」
「だから、すぐには決められないの」
ミレアは膝の上のノアを抱き直した。ロウラを責めず、逃げるとも残るとも言わない。その返事を待つのが辛かった。皆が逃げてくれれば安心する。けれど、自分だけが置いていかれるところを想像すると、次の言葉が出なかった。
セヴァンが椅子から立ち、膝に手をついた。昨日、荷車を止めた際に引き受けた代価が、まだ身体に残っている。ロウラが手を伸ばすと、彼は首を振った。
「立てます。それに、俺が残るかどうかは俺に決めさせてください」
セヴァンは息を整えてから続けた。
「明朝、皆で門へ行きましょう。逃げる道を確かめてから決める。出ることになっても困らないよう、荷車と食料を用意します」
「俺は防衛契約を見てくる」とカッシウス。「残るにしても、誰の命令で何をするのか、先に知りたい」
「あたしの家来にする契約じゃないよ」
背後からヴァレリアが口を挟んだ。
「こんな口の悪い連中を抱えたら、あたしの評判が下がる」
「もう下がる余地はないだろ」とレト。
王妹は声を立てて笑った。
「明朝、東門で会おう。軍を避けて出る道は、あたしが教える」
「あんたは引き止めないのか」とロウラ。
「残ってほしいさ。だからこそ、出られるうちに道を教えるんだよ」
*
翌朝、ロウラたちは荷物をすべて積み、東門の脇へ荷車を寄せた。門の外には街道が続いている。門衛が順に荷札を確かめ、旅人を送り出していた。
ヴァレリアは石段に地図を広げた。サビナが風に浮く端を押さえる。
「東へ進んで、この分かれ道を南へ。川沿いの村をつないで行けば、王国軍の街道から離れられる。今出れば、荷車でも間に合う」
「あんたも逃げればいい」とロウラは言った。
「ああ。何度も考えた」
ヴァレリアの指が、地図に描かれた市壁をなぞった。
「でも兄貴が欲しがってるのは、あたしの首だけじゃない。文書庫も、兵を入れる権利もだ。あたしが出ても、この市への要求は残る」
「だから、ここで死ぬのか」
「死ぬ日まで兄貴に決められちゃ、癪だろうが」
笑おうとした王妹の腕を、サビナが掴んだ。
「殿下も、生きて出る道を探してください」
袖を掴む指に、ヴァレリアが目を落とす。
「ああ。分かったよ」
そこへ近衛の一人が来て、サビナへ耳打ちした。サビナは地図から手を離し、王妹に告げる。
「昨夜、王国の使者に接触した男が動きました。行き先を確かめてきます」
「気をつけな。こっちはあたしが見てる」
サビナは近衛を連れ、倉庫街へ向かった。
ロウラは門の外を見た。昨日まで、外へ出られる身分になることばかり考えていた。いまは誰も止めない。この荷車を街道へ引き出せば、王国軍から遠ざかれる。
肩のリネアが飛び立った。黒い翼が門を抜け、街道の石へ降りる。ロウラが一歩追いかけると、翼猫は振り返り、自分から門内へ戻ってきた。
「ぼくは残る」
地図の横に降り、白い前足を揃えて言った。
「ここでは、ぼくも団員にしてもらった。荷物の猫じゃなくて」
ロウラは懐から登録票を出した。読めない文字の隣に、自分の拇印とリネアの肉球印がある。法廷でも登録所でも、二人の言葉を最後まで聞いてくれた。この紙を持って逃げても、その人たちは市に残る。
ロウラは登録票をしまい、荷車を指した。
「お前も皆と行け。あたしは後から追いつく」
「嘘!」
リネアの声に、荷車のそばのノアまで肩を跳ねさせた。
「残るって言ったじゃない! ぼくを行かせるために、嘘をつかないで!」
ロウラは荷台へ伸ばした手を下ろした。
「お前なら飛んで逃げられるだろ。あたしと一緒にいることはねえんだ」
「飛べるから、ロウラのところへ帰ってくるんだよ!」
リネアが胸へ飛びついた。受け止めた腕の中で、細い身体が震えている。
「また瓦礫の下で見つけるのは嫌だ。ロウラがいないところへ、ぼくだけ行かせないで」
ロウラは背中を撫でかけ、やめた。大丈夫だと言えば、また嘘になる。あのとき石に埋まった身体へ、遠くから届いたリネアの声を覚えていた。
バルクが荷車の引き綱を石段へ置いた。
「俺も残る。ここでは、門を通るときに名前を聞かれた。値段を聞かれなかった」
ユーデは荷台から弓を取り上げた。
「俺は門を守る。逃げるたび、次の町でも奴隷だと言われるかどうか、顔色を窺うのはもう嫌だ」
「死んだら終わりだろうが!」
ロウラは叫んだ。リネアを落とさないよう、抱く腕を曲げる。
「あたしは、あんたらが売られるのも、殺されるのも嫌なんだよ! なんで分かんねえんだ!」
「私だって、あんたが殺されるのは嫌よ!」
ミレアがノアの手をティロに預け、ロウラの前へ出た。外套の襟を掴む。
「怖いわよ! また鎖なんかつけられたくない! でも、あんたを置いて逃げれば安心できると思う? あんただけで決めないでよ!」
襟が引かれて、ロウラは一歩よろめいた。ミレアは手を離したが、目を逸らさなかった。
「私は兵にはならない。ここで布を縫う。包帯でも、兵の服でも。私ができる仕事で、この市を守りたい」
ティロはノアの手を握ったまま、荷台の道具袋を見た。
「俺も工房で働く。いつか自分の工房を持つつもりだった。戸は青く染めるって、もう決めてたんだ」
「逃げた先でもできるだろ」
「ここで始めたいんだよ。たかが戸の色くらい、自分で決めさせろ」
ティロの声が震えていた。ロウラは言い返そうとして、唇を噛んだ。逃げろと言うたびに、皆がここで手に入れたものを捨てさせようとしていた。
ノアがティロの横から顔を出す。
「ぼくは、戦わない」
「戦わなくていい」とレトがすぐ答えた。「出たくなったら言え。川の船で逃げる道もある。お前だけで行かせはしない」
ノアは鼻をすすった。
「今日は帰りたい。いつもの寝床へ」
ミレアがその前に膝をつき、抱き寄せた。ロウラは二人を見ていられず、石畳へ顔を向けた。涙が鼻の脇を流れる。レトが横から清潔な布を差し出した。
「お前も、ここにいたいんだろ」
「だったら、あたしが戦わなきゃ」
「戦わなきゃ追い出されるとでも言われたか?」
ロウラは布を受け取った。そんなことは、誰にも言われていない。怪力を試される前に自由だと認められた。昨日の評議会でも、勝つと約束していないのに、王国へ引き渡さないと決めてくれた。
「五千人なんか、あたしに倒せるわけねえだろ」
「俺たちにも無理だ。市の連中と、どう守るか考えるんだ」
ロウラは布を鼻へ押しつけた。
「やっと、ここまで来たんだぞ」
声がしゃくり上がった。止めようとするほど、喉が鳴る。
「なんで、まだ逃げなきゃなんねえんだよ。寝床も、仕事も、皆の名前も、やっと揃ったのに」
レトは急かさなかった。ロウラは顔を拭き、門の外を一度見た。
「あたしは、ここにいたい」
カッシウスが契約書を出した。
「なら、俺も残る。ただし給金は取る。防衛の仕事だ。恩返しだからと、ただ働きはさせない」
「俺も残ります」とセヴァン。「食料の手配と運搬を続けます。倒れても気にするなとは言いません。休むときは休みます」
ナザルが荷車の綱を拾った。
「俺も契約に入れてくれ。負けないための相談なら、口のうまい男が一人くらい要るだろ」
「給金の話は俺がする」とカッシウス。
ナザルは口を開きかけ、綱を引くことに専念した。ロウラは鼻をすすって笑った。
荷車が市内へ向きを変える。後を追おうとしたロウラの脇腹が引き攣り、レトが肘を支えた。
「乗れ。契約の前に倒れるな」
反射的に振り払おうとして、踏みとどまった。ロウラはリネアを抱いたまま荷台に座る。皆の顔を見るのは、まだ少し怖かった。
*
ヴァレリアも同行し、一行は登録所へ戻った。カッシウスが契約書を出すと、リキアは全員の前で一条ずつ読み上げた。
灯火団は市の防衛責任者の指揮に従う。守るのは市壁と門。担当する場所と仕事は、市と団で協議する。給金、食料、負傷時の治療も定められていた。
ミレアとティロは工房で働き、兵には数えない。ノアには仕事を課さない。リネアの偵察も、飛ぶ場所と危険を確かめてから決める。セヴァンとカッシウスが不明な箇所を聞き直し、皆が了承してから、リキアは朱肉の皿を出した。
ロウラは登録票を契約書の横へ並べた。読めない文字の脇にある、昨日押した指の跡をなぞる。
「ここで、あたしたちの名前を認めてもらった」
今度は防衛契約へ親指を押した。紙を押さえる左手は、もう震えていなかった。
戸が開き、サビナが入ってきた。ヴァレリアを見つけると、近衛を戸口に立たせる。
「先ほどの男を、南水門で捕らえました。書状を持っています。宛名は王国軍司令部です」
サビナは封のある包みを机へ置いた。
「書状はまだ開けていません。評議会の立会いで確かめます」
「どこから出た男だ」とヴァレリア。
「タルシアの屋敷です。尾行して確認しました」
昨日、王国兵を入れるべきだと主張した商人の評議員だった。ロウラは親指の朱を拭く手を止めた。
市を守る契約を結んだ、その机の上に、市の中から王国軍へ送られた書状がある。




