地図にない街
朝の光が、白く室内に滲んでいた。
ティレーンの宿は、港から少し離れた石造りの建物で、窓を開けると、浮遊都市の街並みが広がった。
港の方角から、飛行船の唸りと鐘の音が重なって響いてくる。
ラグナは湯気の立つ霧茶を手に取り、軽く息を吐く。
昨日の出来事――ミナの登録、彼女の話した“戦火”の記憶――が、頭の片隅で引っかかっていた。
そのとき、控えめなノックが響く。
「――ラグナ、起きてる?」
セラの声。
扉を開けると、彼女の後ろにリャナが立っていた。
朝の冷たい風をまとい、表情はどこか険しい。
「少し話をしようと思って。……ミナのこと」
ラグナが頷くと、セラとリャナは部屋に入り、静かに扉を閉めた。
灯光石の光が三人の間に落ち、淡い影を作る。
――――――
リャナは外套を脱ぎ、壁際の椅子に腰を下ろした。
「ギルドで妙な噂を聞いたの。――孤児の中に、昨日攻略者として登録した少女がいて、新人二人が面倒を見ているって」
視線がラグナとセラを往復する。
ラグナが観念したように頷いた。
「……リャナさんの言う通りです。あの子は《カルヴァ》って街から来たらしいです。戦火で家族を亡くして……」
「自分から攻略者になるって言い出して、止めても聞かなかった」
セラが淡々と補う。
リャナは霧茶に指を伸ばし、少し間を置いて口を開いた。
「カルヴァ――聞き覚えがない街ね。ギルドで、少しきな臭い噂も聞いたけど」
ラグナが眉をひそめる。
「もしかして戦争がなかった、って?」
「知ってたのね。アグニアとヴァルト=ヴァルドについては私も噂を聞いたことがある。あのあたりは今、情報が錯綜してるの。アグニア側は“中立連合が侵攻した”と言ってるけど、ヴァルト=ヴァルド側は“そんな事実はない”と主張してる」
「……では、どちらが嘘を?」
ラグナはカップを握りしめたまま、霧茶の湯気越しに二人を見た。
「それがわからないのよ。アグニアはもともと積極的に他層へ干渉している側。ヴァルト=ヴァルドは防戦一方で、戦を仕掛ける余裕なんてないはずだけど……」
リャナは霧茶を軽く回しながら、静かに続けた。
「ミナが“戦争なんてなかったと言ってる人もいた”って話、気になるわ。……もしかすると、私たちが思っている以上に厄介なものが動いているのかもしれない」
ラグナは黙り込み、しばらくカップを見つめた。
霧茶の湯気がゆらゆらと揺れ、その向こうに誰かの面影を思い出す。
「……そういえば」
ラグナは、口に出してから後悔した。
「母さんが昔、アグニアの研究所にいたって――」
その言葉に、リャナの動きが止まる。
持ち上げかけたカップが、わずかに音を立てて揺れた。
「リャナさん?」
「……あ、あぁ。聞いてた。研究所、ね」
カップの縁を指先でなぞりながら、リャナは無理に笑みを作った。
だが、その瞳が一瞬だけ、冷たい光を宿したのをラグナは見逃さなかった。
セラがわずかに目を細めたが、ラグナはそれ以上は追及しなかった。
霧のように薄い沈黙が落ちた。
――――――
昼前。
ミナは宿の前で待っていた。
港の風を受けて髪を揺らし、両手で肩紐をぎゅっと握っている。
「おはようございます!」
元気な声。
けれど笑うたび、口元だけが少し遅れて付いてきた。
目の下にはうっすらと疲れが残っている。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「はい、大丈夫です。……その、ちょっと夢を見ただけ」
「夢?」
「うん……火の色の、夢」
ラグナは何も言わず、軽く肩を叩いた。
「今日は採取任務だ。無理はするなよ」
「はいっ!」
その返事は、必要以上に張りのある声だった。
セラはそんな彼女を見つめ、静かに息を吐いた。
――――――
ギルドで依頼を受けると、三人は飛行船に乗り、丘陵地帯へ向かった。
中央層の空は明るく、空気が澄んでいる。
雲の切れ間から差す光が、草原を金色に染めていた。
「ここ、風が気持ちいいですね」
ミナが目を細める。
「……いい場所だろ」
ラグナが笑う。
導草の群生地で、三人はそれぞれ作業を始めた。
ラグナは根を掘り、セラが魔力刃で切り取る。
ミナは見張り役として少し離れた場所で、小さな短杖を構えていた。
「火の術式、練習してもいいですか?」
「危なくない範囲でな」
ラグナが頷くと、ミナは詠唱を始めた。
掌の先に小さな火球が灯る。
炎はゆらめきながら空気を焼き、周辺を照らした。
風が通るたびに火が揺れ、赤い光が頬を染める。
「……兄が昔、教えてくれたんです」
「お兄さんが?」
「うん。もういないけど、火だけは覚えてて。――忘れたくなかったから」
その言葉に、セラが一瞬だけ目を伏せた。
ラグナは作業の手を止め、ミナの術式をじっと見つめた。
(……なんだ、あれ)
ラグナの目には、ミナの体内を巡る魔力の流れが見えていた。
通常、人の魔力は血管のように滑らかに流れるはずだ。
だが、ミナのそれは違った。
あちこちが断絶し、別の色の光で“縫い止められている”。
継ぎ接ぎだらけの回路――いや、傷跡のような繋ぎ目。
胸の《銀の箱》が、チリチリと不快な熱を発する。
『歪み』だ。彼女の中に、何かが埋め込まれている。
やがて、草の奥から低い唸り声が響いた。
振り向いた瞬間、黒い影が飛び出す。
「魔獣……!」
ラグナが構えるより早く、ミナが杖を振り上げた。
「火よ、形を取って――」
短い詠唱とともに火線が走り、魔獣の肩を撃ち抜く。
炎が弾け、地面を焦がす。
その威力は、初心者のそれにしては強すぎた。
獣は一度吠えて倒れ込み、動かなくなった。
「……やるな」
ラグナが感心したふりをして言う。
内心の動揺を押し隠しながら。
「お見事」
セラの声にも、珍しく温かみがあった。
ミナは少し照れくさそうに笑い、杖を握り直した。
「兄に、胸を張って言いたいから。――もう、逃げなかったって」
その表情は確かに明るかったが、ほんの一瞬、燃え残りの灰のような影が瞳をかすめた。
――――――
夕暮れ。
飛行船の甲板から見える雲海が赤く染まっていた。
帰路についた飛行船の上で、周囲の乗客たちがざわざわと話している。
「聞いたか? あの孤児たち、《カルヴァ》とかいう街から来たらしいぞ」
「カルヴァ? そんな街、そもそも存在しないって話もある」
「でも避難船は確かに来た。――おかしいだろ」
ラグナたちは顔を見合わせた。
セラの表情が固い。
ミナは黙ったまま、沈みゆく太陽を見つめていた。
その頬に、風が吹き抜けていく。
――――――
夜。
セラとミナの部屋。
ランプの光が、集まった四人の顔を照らしていた。
ミナは少しだけ緊張した面持ちで、二人の背中にそっと身を寄せた。
リャナはその視線に気づき、穏やかに微笑んだ。
「驚かせたならごめんね。私はラグナとセラの――同じ里で育った先輩よ。あなたのことは、二人から聞いてる。今日は……少しだけ力になれると思って来たの」
ミナの肩がわずかに緩む。
リャナが鞄から一枚の羊皮紙を取り出す。
広げると、層ごとの地形と都市名が細かく刻まれた古地図が現れる。
「里で保管されてきた古い地図。百年以上前のものだけど、記録だけは今も更新されていて、主要都市は全部載っているはずよ」
リャナが指でアグニアの領域をなぞる。
「……ここが火の連合の中心都市《アグニア=ルフ》。そして南端が交易都市群。……でも、カルヴァという名前は――」
彼女の指が止まる。
地図のその位置には、何も書かれていなかった。
不自然な空白地帯。
「……載ってない?」
ラグナの声が低く響く。
「抜けてるだけ、ですか?」
「あり得る。でも、この地図は“消えた街”も全部記されているの。カルヴァだけが、跡形もない」
ミナの手が震えた。
「……そんなはず、ない。私、そこにいたのに……」
ミナの指先が地図の端を掴み、白くなるほど力がこもる。
セラが隣で小さく息をつく。
「ミナ、落ち着いて。地図が間違ってるだけかもしれない」
「……でも……」
リャナは地図を畳み、静かに告げた。
「調べてみるわ。……けれど、しばらくはあまり外で目立たないほうがいい」
ラグナは黙って窓の外を見た。
ティレーンの街灯が風に揺れ、夜の雲がその光を撫でていく。
“存在しない街”。
それはただの言葉ではなく、どこか、記憶の深層を抉る響きだった。
(……消されたのか?)
「剪定」の儀式のように。
世界によって、街ごと、記録ごと。
「……本当に、あったのに」
ミナの小さな声が、部屋に落ちた。
その震えは、霧の粒よりも儚く、それでも確かな現実を帯びていた。
――――――
部屋を出ると、廊下はひんやりしていた。
灯が等間隔に光り、床板に淡い光の帯を落としている。
遠くで船の鐘が一度だけ鳴り、音は石壁に吸い込まれて消えた。
扉が閉まるのを見届けてから、リャナが歩き出す。
ラグナも隣に並んだ。
「――はぁ、今日は情報が多すぎるわね」
廊下に出た途端、リャナが小さく息を漏らした。
「……ミナの前だから言わなかったけど」
リャナは声を落とした。
「セヴラン様は、いずれ中立連合――《ヴァルト=ヴァルド》側に、何かしらの取引を持ちかけるつもりだったと思う」
「取引?」
「技術の断片でもいい。霧苔層の医薬でも。見返りに、防衛網の補強か、最悪、避難路の確保」
リャナは手に持った古地図の端を指先で押さえる。
折り目が夜気で僅かに軋んだ。
「ミストモスの寿命は、結界塔しだい。内側だけ見て生き延びるには、もう限界が近いから」
ラグナは頷く。
廊下の角を曲がると、吹き抜けから夜風が入ってきて、霧灯の火が一度、低く揺れた。
「これまでは小競り合いの延長だった。境界線での押し合い、情報の攪乱……。でも――」
「本格的にぶつかるかもしれない、ってことですか」
リャナは短く息を吐き、視線を窓の外に投げた。
空のはるか下、雲の裂け目に、地上の暗い帯が覗いている。
「対応を誤れば、火の粉は必ずこっちへ飛ぶ。ミストモスは“見えない街”であり続けてきたけど、今はもう、風向きがよくない」
ラグナは手すりに肘をかけ、下を流れる雲を見た。
「……それでも、決めなきゃいけない」
ラグナは窓枠に置いた指を握りしめた。
「内側を守るために、外へ手を伸ばす。俺たちが、その手になる」
リャナは横目でラグナを見た。
灯の明かりが、彼の頬の陰影を鋭くなぞる。
「まずは確かめること。ミナの街――カルヴァ。存在しない“はず”の場所。そこから始めよう。嘘がどこで生まれたのか、風上を掴むの」
彼女の瞳には、アグニアへの静かな敵意と、それを超える何かが燃えていた。
「また明日の夜、ここで。――情報は散ってる。拾えるうちに拾うわよ」
「分かりました」
二人はそれぞれの部屋へと歩き出す。
足音が遠のくにつれ、霧灯の影もゆっくりと伸びていった。
ラグナは自室の前で一度、振り返った。
雲の上に浮かぶ街は静かで、どこか心もとない。
けれど、その静けさの下で、確かに何かが動いている――そんな気がした。
ミナの中にあった歪な回路。
消えた街、カルヴァ。
そして、アグニアの影。
全てのピースが、一つの不吉な絵を描き始めている。
ラグナは胸の《銀の箱》を押さえ、短く息を吐いた。
夜は深まり、風は方角を変えつつあった。




