第9話「余波」
翌朝。
目が覚めた時、体が重かった。昨日の疲れではない。もっと深い場所の重さだ。
台所に行くと、母さんが茶を淹れていた。
「おはよう」
「おはよう。——顔色が悪いよ」
「寝が足りないだけだ」
「嘘でしょ」
嘘だ。
飯を食った。いつもの朝飯。干し肉とパンと味噌汁。だが味がわからなかった。舌が動いているのに、頭に届かない。
「零時」
「ん」
「無理しないでね」
「無理してない」
「してるよ。——してるけど、言ってもやめないでしょ」
「ああ」
母さんが笑った。疲れた笑い方だった。
仲介所に行った。
ゴンザが帳簿を広げていた。
「仕事をくれ」
「何がある」
「何でもいい」
ゴンザが俺を見た。
「北の丘の伐採。東の排水路。西通りの荷運び。——全部出してやるが、体は持つか」
「持つ」
「銀貨は合わせて十二枚だ」
「もらう」
依頼票にギルドカードを当てた。三枚。
奥の部屋の方を見た。戸は閉まっていた。
「あの女は」
「起きてる。飯は食った。——だが喋らない」
「昨日の今日だからな」
「ああ。時間がかかるだろう」
ルータの声が頭を過ぎった。「時間がかかりますよ。いつもそうです」。あの男は何度もこういう場面を見てきた。
「ゴンザ」
「ん」
「……何でもない」
「そうか」
北の丘に行った。
倒木が三本。斧で枝を落として、幹を玉切りにした。汗が出た。腕が重い。昨日まではこんなに重くなかった。
体が遅れて気づいている。全財産を使った。その事実を、体が消化している。
丘の上から風越が見えた。瓦と石壁が並んでいる。あの町の中に、昨日まで首輪をつけていた女がいる。今日から首輪はない。紙の上で消えた。
だが首の白い線は消えない。結晶の濁りも消えない。
斧を振った。木が割れた。汗が落ちた。もう一本。
銀貨五枚。
東の排水路に回った。
泥が深かった。腰まで浸かって、根を切って、泥を上げた。手が冷たい。春の水だ。
隣の田んぼの爺さんが茶を持ってきてくれた。
「あんた、昨日も来てなかったかい」
「一昨日だ」
「ああ、そうだったか。——よく働くねえ」
「金が要る」
「若いのに偉いよ」
若くない。三百歳だ。言わなかった。
銀貨四枚。
西通りの荷運び。
商人の荷を市場から倉庫に運んだ。重い木箱を六つ。腕が痺れた。
銀貨三枚。
合わせて十二枚。昨日、全部出した額のほんの一部だ。一枚ずつ積み直す。
仲介所に戻った。報酬を受け取った。
奥の部屋の戸が薄く開いていた。
覗いた。
ミーナが座っていた。壁にもたれて。膝を抱えて。窓の外を見ていた。
昨日と同じ姿勢だ。何も変わっていないように見えた。
だが一つだけ違った。枕元に、母さんの軟膏の瓶が置いてあった。蓋が開いている。使った跡があった。
自分で塗ったのだ。
声はかけなかった。戸口に立っただけだ。
ミーナが振り向いた。目が合った。
「……また来たの」
「報酬を取りに来た」
ミーナが少し間を置いた。
「そう」
ミーナが窓に目を戻した。
少しだけ間があった。
「ねえ」
「何だ」
「昨日のこと。なんで、あんなことしたの」
全財産を出して、見知らぬ女を解放した理由。
「わからん」
「わからないの」
「わからん」
「……変な人」
二度目だった。
ミーナの口元が動いた。笑いとは呼べない。だが前より長かった。
「明日も来る」
「……好きにすれば」
仲介所を出た。
家に着いた。
母さんが台所にいた。
「おかえり。——銀貨いくら?」
「十二枚」
「多いね。三件?」
「ああ」
「無理してるでしょ」
「してない」
「してるって。——でも、ありがとう」
母さんが夕飯を出した。煮物だった。大根が少し焦げていた。
「……腕は上がってるのか下がってるのかわからんな」
「上がってるよ。焦げは味だから」
「味じゃない」
食った。食えた。今日は味がわかった。朝よりましだ。
母さんの鼻歌が工房から聞こえた。あの曲だ。
縁側に出た。
夜の風が吹いていた。星が出ている。
革袋は棚の奥にしまった。空のまま。しばらくここに入れるものはない。一枚ずつ稼いで、少しずつ入れていく。
遠くで枝を踏む音がした。あの足音だ。南から西へ、西から北へ。
あいつは今夜も歩いている。
俺は今日、木を伐って、泥を掻いて、荷を運んだ。銀貨十二枚。
明日もやる。明後日もやる。
ミーナが「好きにすれば」と言った。好きにする。
「母さん」
「ん?」
「あの女、仲介所にいつまでもいられるわけじゃない。行く場所がない」
母さんが茶碗を置いた。
「……明日、薬を届けに行くから。その時に聞いてみるね」
「何を」
「うちに来るかどうか。治療を続けるなら、仲介所より近いし」
母さんの声はいつも通りだった。実務的な提案に聞こえた。だが目が笑っていた。




