第8話「解放」
七日目の朝。
仲介所に入ると、ゴンザが立っていた。座っていなかった。
「来たか」
「返事か」
「来た。——ベルクが同意した」
ゴンザが机の上の封書を指した。ヴァルディアの紋章入りの封蝋。開封されている。
「条件は」
「ルータが提示した金額そのまま。追及されるより手放すほうがましと判断したらしい」
ゴンザの顔は平坦だった。だが帳簿は閉じていた。
「今日、手続きをする。ルータには伝えてある。——零時、金を持って来い」
「ある」
昨夜のうちに数えた。革袋に入れた。床板の下から、棚の奥から、あちこちに散らばっていた金をかき集めた。
持ち上げた時、思ったより軽かった。長く生きてきて、これだけだ。
家を出る時、母さんが台所にいた。革袋を見た。何も言わなかった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
いつもと同じ声だった。
林の道を歩いた。革袋が腰で揺れていた。
ぎりぎりだった。昨夜数えて、銀貨が何枚か余っただけだ。金を貯める性分じゃない。足りたのは運だ。
風越に着いた。市場は開いていた。トーマが暖簾を出していた。「よう零時」と声をかけてきた。「ああ」とだけ返した。
いつもの朝だった。
仲介所に入った。ゴンザは椅子に座っていた。帳簿は閉じたまま。
「ルータは」
「連絡してある。昼までには来る」
「代理人は」
「同じだ。護衛を一人連れてくるらしい」
革袋を机の上に置こうとした。
「まだだ。全員が揃ってからだ」
革袋を腰に戻した。
茶を淹れた。自分で。ゴンザは動かなかった。窓から市場の声が聞こえていた。
ルータが来た。いつものコートに革手袋。書類の束を脇に抱えている。
「おはようございます」
微笑んでいた。だが口数が少なかった。
ゴンザの机に書類を広げて、一枚ずつ確認を始めた。ルータの指が紙を繰るたびに、擦れる音がした。俺にわかる話じゃない。黙って待った。
代理人が来たのは昼前だった。
仲介所の受付に——ゴンザ、ルータ、代理人、護衛が一人。俺は革袋を持って立っていた。
書類が並べられた。ベルクの署名入りの売却同意書。所有権の移転申請書。そしてもう一枚——ゴンザが出した紙。
「解放届だ」
ゴンザが俺に向けて紙を置いた。
「所有権の移転と同時に処理する。お前が所有者になった瞬間に、この届けが有効になる。蒼嶺の法に基づく、正式な解放届だ」
代理人が眉を動かした。口は閉じたままだった。売却に同意した以上、その先に口を出す権限はない。
ルータが金額を読み上げた。代理人が確認した。ゴンザが仲介所の印を押した。
革袋を机の上に置いた。
ゴンザが中身を確認した。代理人が確認した。ルータが確認した。
全部だった。余りは銀貨が数枚。それだけだ。
ルータが署名した。代理人がベルクの代理として署名した。
俺の番が来た。
紙の上に名前を書いた。
所有権が移った。
ゴンザが解放届に仲介所の印を押した。
紙の上で、所有者が変わり——次の瞬間に、所有者がいなくなった。
「手続きは以上だ」
ゴンザの声はいつも通りだった。仲介所の声だった。
代理人が書類をまとめた。
「……帰還する」
護衛を連れて出ていった。革靴の音が遠ざかった。今度こそ、戻ってこない。
仲介所が静かになった。
ルータが茶を啜っていた。微笑はあった。だが力が抜けていた。
「……零時さん」
「何だ」
「行ってきてください」
立ち上がった。
受付から廊下に出た。奥の部屋の戸が閉まっている。壁越しに何も聞こえなかった。
戸を開けた。
女は壁際に座っていた。脚を伸ばして、手を膝の上に置いていた。
顔を上げた。
壁越しに聞こえていたのかもしれない。目が怯えていた。何かが決まる音を、何度も聞いてきた目だった。
「……何があったの」
「終わった」
「終わった?」
「俺がお前を買った。ベルクから所有権を移した」
女の目が揺れた。唇が開いた。閉じた。
「……それで、次は——」
「解放届を出した。蒼嶺の法で、お前は自由だ」
女の表情が——動かなかった。
女はぼんやりと俺を見ていた。
表で、荷車が通る音がした。
何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
女が視線を落とした。自分の膝を見ていた。
部屋を出た。
廊下にゴンザが立っていた。壁に背をつけて。
「どうだった」
「何も言わなかった」
「……そうか」
ゴンザが小さく息をついた。
それ以上は聞かなかった。泣いたか、笑ったか。聞いたところで、仲介所にできることはもうない。
「行く場所が決まるまで、ここにいさせる。——手続きじゃない。俺が決めた」
ゴンザが廊下の壁から背を離した。受付に戻っていった。
ルータが椅子に座っていた。茶碗を両手で包んでいた。
「反応がなかったんですね」
「ああ」
「時間がかかりますよ。いつもそうです」
いつもそうだ、とルータは言った。何人も見てきた男の声だった。
仲介所を出た。
空が高かった。風が吹いていた。
三歩歩いて、足が止まった。膝の力が抜けた。壁に手をついた。
壁が冷たかった。石の冷たさが、指から腕まで伝わってきた。
息を吸った。深く。吐いた。吐ききっても、震えが止まらなかった。
頭はもう終わったと知っている。体がまだ知らない。
壁から手を離した。立てた。歩ける。
革袋は腰にある。朝と同じ位置にぶら下がっている。中身がないから揺れない。
市場を通った。昼の人通りが増えていた。魚屋が値段を叫んでいる。子供が走っている。荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
誰もこっちを見ていない。
金がない。持っていたものが全部、紙の上で消えた。
一人だけだ。
林の道に入った。灯草が揺れていた。
三百年。一度もなかった。全部を一日で使ったのは。
家に着いた。
「ただいま」
「おかえり。——軽い顔してるね」
「……軽いか」
「うん。朝より軽い」
母さんは何も言わなかった。夕飯を食べた。干し魚と味噌汁。質素だが、いつもこんなものだ。金があった時もなかった時も、食卓は変わらない。
「明日から仕事を増やす」
「うん」
母さんは黙っていた。
「零時」
「何だ」
「今日の風、春っぽかったね」
「ああ」
「春って好き?」
「別に」
「私はね、好きだよ。何かが始まる感じがするから」
母さんはそれだけ言って、台所に立った。
食器を片付けた。縁側に出た。
夜の風が冷たかった。星が見えた。
金がない。明日からまた銀貨を数枚ずつ稼ぐ。持っていたもの全部が一日で消えた。
柵の修繕。倒木の処理。畑の石拾い。水路の泥掻き。何でもやる。半年もすれば、いくらか戻るだろう。
いくら貯まったところで、次に誰かが東の門で倒れてきたら、また足りない。
一人分の自由の値段だった。
あの女は今夜、初めて、誰のものでもない体で眠る。眠れているだろうか。




