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第7話「取引」

 朝。仲介所に行った。

 市場の通りは静かだった。蒼嶺そうれい側の住民が仲介所の前に数人残っていた。夜通し交代で誰かがいたらしい。八百屋の親父が腕を組んで立っている。

 ヴァルディア側の通りに人影は少なかった。追手は宿にいるのだろう。待っている。委任状が届くのを。

「ゴンザ」

「おう。来たか」

 ゴンザの目の下の隈が昨日より濃かった。

「動きは」

「まだない。代理人は宿にいる。護衛も出歩いてはいるが、何もしていない。何もしなくていいんだ。待つだけだから」

 そうだ。時間は追手の味方だ。委任状が届けば書類が揃う。揃えば引き渡す根拠が生まれる。

「あの女は」

「朝飯は食った。まだ量は少ないが、吐かなくなった」

 ゴンザが冷めた茶を俺の前に出した。不味かった。

零時れいじ。正直に言う。——打つ手がない」

「書類の不備は」

「認証印だけだ。委任状が取り寄せられれば、他の書類は全部正式だった。あの代理人、仕事ができる。つけ入る隙がほとんどない」

 ゴンザが帳簿を閉じた。

「数日だ。どれだけ引き延ばしても——」

 仲介所の扉が開いた。

 革靴の音じゃなかった。柔らかい足音。聞いたことのある足音だ。

「おはようございます」

 ルータだった。

 コートの裾を整えながら入ってきた。いつもの微笑。左手の革手袋。右手に書類の束を持っている。商取引の伝票じゃなかった。もっと厚い。

「ゴンザさん。零時さん。少しお時間をいただけますか」

 ゴンザがルータを見た。ルータが椅子に座った。脚を組んで、書類を机の上に置いた。

「所有権の移転について話があります」

 ゴンザの目が細くなった。

「あの女のか」

「はい。所有者のベルクから所有権を移す。合法的な手続きです。所有者が売却に同意すれば、回収令状は無効になる」

「買い手は」

「私です」

 ルータの声は穏やかだった。茶を奢る時と同じ声で、人を買う話をしている。

「買い取った後のことも考えてあります。私の名義で預かり、貸し出し先を手配する。手数料を取って、報酬の一部を本人に。所有権は私が保持します。扱いが悪ければ引き上げられる。他人の所有物の損壊になりますから」

 ルータが書類の一枚を広げた。数字が並んでいた。

「積み上げれば、いずれ自分を買い戻せます。時間はかかりますが、道筋はある」

 慣れた話し方だった。何度も同じ説明をしてきた人間の話し方だ。

「それで首輪は外れるのか」

 ルータの手が止まった。一拍。

「外れません。所有者が私に変わるだけです。ただ——削られることはなくなる」

「……主人が変わるだけだ」

「主人が変わるだけです。でも、今よりは」

「でも、じゃない」

 沈黙が落ちた。ゴンザが茶碗を置く音だけがした。

 手が拳を握っていた。いつからかはわからない。

 奥の部屋に、あの女がいる。壁にもたれて座っている。

「零時さん。気持ちはわかります。でも現実の話をしています。委任状が届けば、あの子は連れ戻される。今できることを——」

「ゴンザ」

 口が動いていた。ルータの声を遮っていた。

「何だ」

「俺が買ったら、どうなる」

 言ってから、自分の口が何を言ったのかを聞いた。

 ゴンザのペンが止まった。ルータの微笑が消えた。

「お前が所有者になる」

「その先だ」

 ゴンザが俺を見た。数秒。それから肘を帳簿の上に置いた。

「前にも言ったが——蒼嶺にゃ奴隷制度がない。所有者が蒼嶺側の人間なら、解放届を出せる。出せば法的に自由になる」

 前にも聞いた。あの時ゴンザは「守れもしない約束をする馬鹿もいないだろう」と言った。

 今は違う言葉が残っている。

「買って、解放届を出す。それでいいんだな」

「手続き上はそうだ。所有権の移転と解放届を同時に処理できる」

 ルータが口を開いた。声から敬語のやわらかさが消えていた。

「零時さん。それは——金を捨てるのと同じですよ。買って即座に解放したら、全額が消える。戻ってこない」

「いくらだ」

 ルータが黙った。

 俺を見ていた。微笑はなかった。測る目でもなかった。

 それから、金額を言った。

 仲介所が静かになった。ゴンザが俺を見ている。ルータも見ている。

 昨夜、数えるつもりもなく数えた銀貨の数が、勝手に頭に浮かんだ。

 持っているものを全部出せば——届く。

「払える」

 ルータが息を呑んだ。

「……本気ですか」

「払えると言った」

 沈黙があった。仲介所の表から、蒼嶺側の住民が何か言い合う声が遠く聞こえた。遠かった。妙に遠い。

 ルータが俺を見ていた。何かを計算する目ではなかった。

「……わかりました」

 ルータが書類を並べ直した。手が動き始めた。迷いのない手つきだった。

「交渉は私が仕切ります。手続きと法律は私のほうが詳しい。ゴンザさん、代理人を呼んでいただけますか」

 ゴンザが立ち上がった。

「呼んでくる」



 足音が二つ。ゴンザの重い足音と、硬い革靴の足音。

 仲介所の扉が開いた。代理人が入ってきた。護衛を一人連れていた。

 代理人がルータを見た。ルータが立ち上がって会釈した。

「ルータ・アルベルト。アルベルト商会です。所有権の移転について、提案があります」

「聞いている。だが答えは変わらない」

 早かった。

 ルータが書類を出す前に。金額の話をする前に。代理人は即座に口を開いた。

「ベルク氏は売却の意思がない。あの奴隷の回収が目的だ。それ以外の選択肢はない」

 ゴンザが俺を見た。目だけで。

「早すぎるだろう」

 声が出ていた。俺の声だった。代理人がこちらを見た。

「提案を持ち帰って検討するのが筋だ。即座に潰す理由がない——よほど潰したい理由がなければな」

 代理人の目が揺れた。ルータが俺を見た。口元が、わずかに動いた。

「そうですか。では一つ、確認させてください」

 ルータが書類を一枚取り出した。仲介所の記録用紙だった。ゴンザに目で確認を求め、ゴンザが頷いた。

「仲介所が収容時に記録した、あの奴隷の身体状態の報告です」

 代理人の顔が動いた。微かに。

「結晶の損傷。採取痕。複数箇所の空洞。——強制採掘の疑いがある状態です」

「同意の記録はベルク氏の元に——」

「あるかもしれません」ルータが遮った。穏やかに。「ただ、この記録が管区に届いた場合——回収を承認した代理人にも、監査が及ぶ可能性がありますね」

 代理人の顔が変わった。だが、まだ折れなかった。

「仲介所の身体記録に、管区への通報義務はないはずだが」

 声が硬かった。ルータの脅しを量っている。

「それに——買い取りを申し出ているのは奴隷商人だ。保護を名目にした転売と、管区が見なす可能性もある」

 ルータの顎がわずかに引かれた。一拍。代理人はそれを見ていた。

 ゴンザが口を開いた。

「義務はない。だが保管義務はある。管区から照会が来れば、提出する。それが手続きだ」

「正式な回収要請を妨げるなら、仲介所の中立性にも疑義が生じる」

「妨げていない。確認をしている」

 ゴンザの声が大きくなった。代理人が口を閉じた。

 だが折れてはいない。記録は所見に過ぎない。代理人の目がそう言っていた。

「俺はあの女を門の前で運んだ」

 代理人が振り返った。

「腕の傷を見ている。数も覚えている」

「証人と記録が揃えば、管区は調査を開始できます」ルータが言った。「調査が始まれば——回収を承認した代理人の名前も、当然出ます」

 沈黙が落ちた。計算の沈黙だ。自分の首にどれだけ火の粉が来るかを量っている。

 ルータは待った。代理人の計算が終わるのを、黙って待っていた。

「……ベルク氏に確認を取る」

「お待ちしています。金額はこちらです」

 ルータが書類をもう一枚出した。数字を指した。代理人が見た。目が動いた。

「断る理由がない金額にしてあります」

 代理人が書類を手に取った。しばらく見ていた。

「……伝書を出す。返答があり次第、連絡する」

「お待ちしています」

 代理人が立ち上がった。護衛を連れて出ていった。足音が硬かった。

 ルータが椅子にもたれた。微笑が消えていた。目を閉じた。

 ゴンザが茶を淹れ直した。三つ。

「あの代理人、買われてるな」

 ゴンザが言った。ルータが目を開けた。

「断り方が早すぎた。中立の仲介者がああは出ない。ベルクに金を握らされてる」

「ええ。たぶんそうでしょうね」

 ルータの声は淡々としていた。驚きはなかった。最初から知っていたのかもしれない。

「結晶の記録が効いた。自分の首は賭けたくない。——ベルクも同じだ。追及されるより手放すほうが安い」

 ゴンザが茶を啜った。

「仲介所は中立だ。だが、手続きに問題がなければ、止める理由もない」

「ありがとうございます」

 ルータが俺を見た。

「零時さん。返事が来るまで数日はかかります。覚悟はいいですか。——返事が来たら、全額です」

「ああ」

「取り消せませんよ」

「取り消さない」

 ルータが何か言いかけた。やめた。書類を整えて、立ち上がった。

「また来ます。返事が届く頃に」

 出ていった。



 数日が過ぎた。

 仕事を受けた。水路の泥上げと薬草採り。柵の修繕。銀貨が五枚、三枚と手に入る。もうすぐ全部なくなる金を、まだ稼いでいる。手が勝手に動く。

 仲介所に寄った。ゴンザに女の様子を聞いた。飯は食っている。少しずつ長く起きていられるようになった。窓の外を見ている時間が増えた。

 奥の部屋には行かなかった。行って何を言う。まだ何も決まっていない。


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