第6話 「追手」
仲介所に着いた時、ゴンザの顔を見てわかった。
何かが来る。
「零時。ちょうどいい」
「何があった」
「西の門の見張りから伝令が来た。街道をこっちに向かってる一行がいる。三人。馬が二頭。ヴァルディアの紋章入りの外套」
「紋章」
「公的な代理人だ。商人じゃない」
ゴンザの声は平坦だった。だが机の上の帳簿が閉じられていた。ゴンザが帳簿を閉じるのは、仕事の話ではない話をする時だ。
「来たか」
「来たんだろう。——来ないでくれと思ってたがな」
ゴンザが立ち上がった。窓の外を見た。市場の通りがいつもの朝のように動いている。まだ誰も知らない。
「零時。お前に頼みがある」
「何だ」
「奥の部屋にいてくれ」
「何のためにだ」
「あの女の傍にいてくれ。——揉めた時に、誰かが近くにいたほうがいい」
ゴンザは「関わるな」と何度も言った男だ。その男が頼んでいる。
「……わかった」
「おう。——俺は表で対応する。書類を出してきたら、確認する。それが仲介所の仕事だ」
奥の部屋に入った。冴月の鞘が戸口に当たった。
女が窓の傍に座っていた。両手を膝の上に置いている。
俺が入ると、顔を上げた。
「……また来たの」
「ゴンザに頼まれた」
「何を」
「ここにいろと」
女が少し眉を動かした。何かを察したのか。それとも、ただ怪訝に思っただけか。
「何か来るの」
「わからない」
嘘だ。わかっている。だが言えなかった。
女は窓の外に目を戻した。腕の結晶に朝の光が当たっていた。灯里の軟膏を塗った跡がある。母さんが来てから数日。傷の赤みが少し引いていた。
待った。
何を待っているのかを、考えないようにしていた。
市場の方から、声が聞こえた。
いつもの商売の声じゃない。ざわめきだ。低い。
仲介所の表の扉が開いた音がした。足音が三つ。靴音が硬い。石畳を叩く革靴の音。風越の住民はほとんどが草履か木靴だ。革靴の音は浮く。
ゴンザの声が聞こえた。
「ようこそ風越仲介所へ。——何のご用件でしょうか」
知らない声が答えた。低い声。落ち着いている。
「ヴァルディア王国・グランシュタット管区の代理人です。主人の名はベルク。所有奴隷の回収のため参りました。書類はこちらに」
紙の音がした。書類が差し出された音だ。
体が動いた。俺の体だ。壁にもたれていた背中が離れた。戸口に立っていた。女と戸口の間に入っていた。
女の体が動いた。
動いた、というのは正確じゃない。固まった。さっきまで膝を抱えていた腕が、そのまま止まった。呼吸が浅くなった。目が開いたまま、何も見ていなかった。
声も出さなかった。ただ動かなくなった。
それが一番きつかった。
叫んでくれたほうがまだいい。泣いてくれたほうがまだいい。何も言わず、何もせず、石のように固まっている。
「——大丈夫だ」
何を言っているのか自分でもわからなかった。声が掠れていた。
「大丈夫だ。ここにいろ」
女は答えなかった。固まったままだった。
表に出た。
仲介所の受付に三人の男がいた。
先頭の男は四十前後。髪を短く刈り、革の外套を着ている。ヴァルディアの紋章——鷲と剣の意匠が胸元にあった。書類を持っている手は白い。事務方の手だ。
後ろに二人。体格のいい男たちだった。護衛だろう。武装はしていないが、腰に短剣の形が外套の下に見える。
「これは」
先頭の男がゴンザの向かいに立って、書類を広げていた。
「所有権の証明書です。署名と捺印。管区の登記所で確認が取れます。——こちらが回収の令状。逃亡奴隷の身柄引き渡しに関する正式な要請です」
ゴンザが書類を見ていた。顔は動かない。
「確認しますので、少々お待ちください」
「ええ、もちろん」
代理人の声は丁寧だった。怒鳴りもしなければ、脅しもしない。書類を出して、手続きに従って、法に基づいて人を回収しに来ている。それだけだ。
ゴンザが書類をめくっている。一枚一枚、丁寧に。時間を掛けている。意図的に。
「署名はベルクとなっていますが、本人の委任状は」
「こちらに」
「……管区の認証印がありませんが」
「口頭での確認は取れています。書面が必要であれば——」
「書面が必要です。仲介所の規定として、身柄の引き渡しには所有者本人の署名入り委任状、管区の認証印、および中立第三者の立ち会い証明が求められます」
代理人の眉が動いた。初めて表情が変わった。
「そのような規定は——」
「国境の町の仲介所です。二国間の案件を扱います。手続きは厳密にやらせていただく」
ゴンザの声はでかかった。いつもよりでかい。聞かせるための声だ。表の通りにも聞こえただろう。
代理人が少し黙った。考えている。法に詳しい男だ。ゴンザの言葉が正当かどうか、頭の中で検証している。
「……認証印つきの委任状を取り寄せるには、往復で数日かかります」
「お待ちします。風越には宿がありますので」
「その間、逃亡奴隷の身柄は」
「仲介所が預かります。中立の立場で」
代理人がゴンザを見た。ゴンザが代理人を見返した。
沈黙が五秒ほど続いた。
「……わかりました。委任状を取り寄せます。それまで身柄の保全をお願いします」
「承知しました」
代理人が書類を戻した。二人の護衛を連れて、仲介所を出ていった。
靴音が遠ざかった。
表の通りが騒がしくなった。
追手が来たことは、もう町中に知れていた。
蒼嶺側の住民が仲介所の前に集まり始めた。東の門の朝に水を運んだ老婆がいた。市場の八百屋の親父がいた。十人、十五人と増えていく。
「引き渡すのか」
「引き渡さない。書類の不備で時間を稼いだ」
ゴンザが簡潔に説明した。
「不備って、どれくらい持つんだ」
「数日。委任状を取り寄せるまで」
「数日のあとはどうなる」
ゴンザが黙った。数日のあとは——書類が揃えば、拒否する根拠がなくなる。
蒼嶺側の住民たちが声を上げた。道を塞げ。門を閉じろ。ヴァルディア側の住民は離れていった。黙って。反論もしなかった。法がこちらにあるとわかっているから、言い争う必要がないのだ。
俺は仲介所の中にいた。
奥の部屋に戻った。
女はさっきと同じ姿勢だった。固まったまま。壁にもたれて、膝を抱えて、何も見ていない目をしていた。
「帰った。追手は宿に行った」
女が瞬きをした。ゆっくりと。戻ってきた。
俺を見た。戸口に立っている俺を。いつの間にか、女と戸口の間に立っていたことに、女が気づいた。目が少し変わった。呆れでも怒りでもなかった。名前のない目だった。
「……帰ったの」
「帰った。書類が足りないから、取り寄せるまで待つと」
「待つだけでしょ。来るよ。揃えて、来る」
「……ああ」
「逃げた奴隷には必ず追手が来るって、前の主人が言ってた。必ず来る。どこに逃げても」
女の声は乾いていた。あきらめた声だった。逃げる前から結末を知っていた人間の声だ。
「あんた、さっき何て言った」
「何を」
「大丈夫って言ったでしょ。——何が大丈夫なの」
答えられなかった。何も大丈夫じゃない。書類が揃えば引き渡される。法的に拒否できない。数日の猶予があるだけだ。
「わからん」
「わからないのに言ったの」
「ああ」
女が俺を見た。暗い目だった。だが怒りではなかった。何か——呆れに近いものが混じっていた。
「変な人」
「よく言われる」
女が少しだけ、ほんの少しだけ、口元を動かした。笑いとは呼べないくらいの動き。すぐに消えた。
歯を噛んだ。奥歯が鳴った。
大丈夫と言った。嘘だった。俺に何ができる。刀は二本ある。斬る相手がいない。法と書類と制度が相手だ。
こういう場面で何もできなかったことが何度あったか。数えるのをやめた。
長く生きても、できないことは変わらない。
仲介所を出た。
市場を通り抜けた。蒼嶺側の住民がまだ集まって話し合っている。声が大きい。怒りと不安が混じっている。
ヴァルディア側の通りは静かだった。店は開いているが、客が少ない。目を合わせない空気がある。
林の道を歩いた。足が重かった。
家に着いた。台所から煙が出ていた。
「焦げてるぞ」
「あ」
母さんが慌てて鍋を火から下ろした。底が少し黒くなっていた。
「……まあ食べられるでしょ」
「ああ」
食べた。少し焦げていた。構わなかった。
母さんは何も聞かなかった。町のこと。追手のこと。何も。
小さな町だ。もう知っているのかもしれない。知っていて、聞かないのかもしれない。
「零時」
「何だ」
「おかわりは?」
「もらう」
母さんがよそった。焦げた部分を避けて。
食器を片付けた。
布団を敷いた。横になった。目が閉じなかった。
あの部屋で、追手の声を聞いて、女の顔を見た。代理人が書類を広げていた。ゴンザが時間を稼いでいた。
俺は何をした。何もしていない。ただ奥の部屋にいて、「大丈夫だ」と言った。大丈夫じゃないのに。
でも——あの女が固まった時、逃げなかった。部屋を出なかった。あの場にいた。
数日だ。委任状が届くまで数日。
何ができる。何もできないかもしれない。
——できることが、一つだけある。
起き上がった。手が棚の奥に伸びた。革袋を引っ張り出した。中身を畳の上にあけた。
銀貨が散らばった。数えるつもりはなかった。だが指が一枚ずつ拾い始める。指先が冷たい。
遠くで、あの足音が聞こえた。いつもと同じ間隔で。
でも、明日もたぶん仲介所に行く。仕事を探しに行くふりをして。




