第5話 「手当て」
朝飯を食べていたら、母さんが言った。
「今日も風越に行く」
箸が止まった。
「また?」
「前に届けた薬だけじゃ足りない。ちゃんと診たい」
母さんは何度か仲介所に薬を届けていた。一人で行って、置いて帰ってきた。だが今日は声の調子が違った。昨日の「採掘」の時と同じ硬さが混じっていた。
「一緒に来てくれる? 今日は時間がかかると思うから」
「……ああ」
断る理由がなかった。
支度をして家を出た。母さんが革の鞄を持っていた。中身は見えないが、瓶が当たる音がしている。薬か軟膏だろう。
林の道を並んで歩いた。母さんは小さい。俺の肩くらいの背丈しかない。歩幅が違うから、自然に俺が遅くなる。いつもそうだ。
灯草の白い花が道の脇に咲いていた。母さんがちらりと見た。目が柔らかくなった。
「母さん」
「ん?」
「本当に、結晶の傷を診れるのか」
「診れるよ。たぶん」
「たぶん」
「結晶の構造は知ってる。どう生えて、どう再生するか。壊れ方にも種類がある。——だから、少しは役に立てると思う」
母さんの声は落ち着いていた。錬金術師としての声だ。普段のふわふわした母さんとは違う。こちらが本来の顔なのかもしれない。長く一緒にいても、どちらが本当の母さんなのかわからない。
「風越に来るの、久しぶりだな」
「先月も来たよ。薬屋に材料を買いに」
「覚えてない」
「零時が仕事に行ってる間に行って帰ったから」
それは来たうちに入るのか。まあいい。
風越に着いた。
市場を通り抜けた。母さんは周りをきょろきょろ見ていた。好奇心の強い人だ。普段は工房に籠もっているくせに、外に出ると子どものように目を動かす。
「あら、あそこのお店新しいね」
「三年前からある」
「そうなの。知らなかった」
仲介所に着いた。
ゴンザが顔を上げた。目を少し見開いた。
「零時。——と、これは……」
「母さんだ。灯里」
「灯里さん。こりゃまた珍しい」
「お久しぶりです、ゴンザさん」
母さんが会釈した。ゴンザも返した。二人は何度か会ったことがある。母さんが材料を買いに来た時に仲介所に寄ることがたまにある。
「今日はどういうご用件で」
「あの子の傷を診させてもらいたいの。結晶の傷」
ゴンザが眉を上げた。俺を見た。俺は肩をすくめた。
「錬金術師として、結晶の損傷には多少の知見があります。医者にできないことが、できるかもしれない」
ゴンザがしばらく考えていた。それから頷いた。
「本人が嫌がらなければ、構わん。——あの子、他人に触れられるのを怖がる時がある。無理はしないでくれ」
「もちろん」
奥の部屋の戸を開けた。
女が窓際に立っていた。こちらに背を向けて、外を見ている。
俺たちが入ると、顔を上げた。俺を見て、それから母さんを見た。
目が少し動いた。警戒だ。知らない人間が来た。
「あんたは——前の」
「ああ。今日は母親を連れてきた」
女の目が俺と母さんの間を行き来した。母さんは小さい。俺の肩くらいの背丈で、見た目も俺より若く見える。母親だとは思わないだろう。
「はじめまして」
母さんが柔らかく笑った。しゃがんで、女と目線を合わせた。
「灯里です。錬金術師をしているの。——結晶の傷を診させてもらえないかな」
女が黙った。母さんを見ていた。何かを量っている目だった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……いい」
「ありがとう」
母さんが革の鞄を開けた。中から布と、小さな瓶を三つ取り出した。透明な液体と、薄い緑色の軟膏と、何か粉末のようなもの。
「腕を見せてもらっていい?」
女がゆっくりと腕を差し出した。左腕。結晶と空洞が並んでいる腕だ。
母さんの手が、女の腕に触れた。
一瞬だった。指先が結晶の傷に触れた瞬間、母さんの指が震えた。ほんの一瞬。零コンマ何秒。
すぐに動いた。何事もなかったように、指が傷の周りを丁寧になぞり始めた。
母さんの手つきは正確だった。無駄がなかった。結晶の生え際を指先でなぞり、空洞の深さを確認し、傷痕の状態を見ている。何百回も——いや、もっと——やったことがある手つきだ。慣れている。慣れすぎている。
普通の錬金術師が、こんなに手慣れているものなのか。
「ここは……再生が始まってるね。新しい結晶が少し見える」
母さんが少し間を置いた。
「ただ——濁りは戻せない。再生を助けることはできるけど、元の透明度には……私にも無理」
初めて聞いた。母さんが「無理」と言うのを。
母さんが軟膏を指に取り、傷の縁に塗った。女が少し体をこわばらせた。
「しみる?」
「少し」
「ごめんね。でも、これで再生が少し楽になるはずだから」
母さんの声は穏やかだ。診ている間、ずっと穏やか。だが目が違う。
俺は母さんの目を知っている。式を書いている時の目。茶を飲んでいる時の目。鼻歌を歌っている時の目。全部知っている。
今の目は——あの獣の話を聞いた時と同じ目だった。
三本爪の獣。あの時も母さんの目が変わった。何かを抱えている目。
母さんが肩の傷にも手を伸ばした。服の襟を少しずらして、肩の結晶を確認する。
「ここは深い。かなり深く削ってる。——乱暴な採り方だ」
母さんの声が変わった。硬くなった。
「ただの素材としてしか見てないのよ、こういう人たちは」
声が低かった。怒りだった。母さんが怒ることは珍しい。数えるほどしか見たことがない。
「こういう人たち」。
それが結晶を削る側の人間を指しているのか。もっと別の意味を含んでいるのか。俺にはわからなかった。
母さんがすぐに表情を戻した。普段の柔らかい顔に。
「——ごめんね。もう少しで終わるから」
女は黙っていた。母さんの手を見ていた。怖がってはいなかった。母さんの手が痛みを与えないことがわかったのだろう。
軟膏を塗り終えた。粉末を布に包んで、傷の上に当てた。
「これを一日に二回替えて。軟膏は朝と夜に塗って。前にもこの処方で治した子がいたから。少しずつだけど良くなるはず」
前にも治した子がいる。いつ。どこで。それ以上は母さんの領分だった。
母さんが瓶と軟膏と粉末を女の傍らに並べた。
「足りなくなったら、ゴンザさんに言ってね。届けるから」
女が母さんを見上げた。
「……ありがとう」
小さな声だった。かすれていた。だが確かに聞こえた。
母さんが微笑んだ。いつもの微笑。読めない微笑。目尻が少し下がって、口元が柔らかくなって、何を考えているのかわからない顔。見慣れた顔だ。
「いいの。——大丈夫だから」
大丈夫。何が大丈夫なのか。傷のことか。これからのことか。それとも——もっと別の何かに向けて言っているのか。
母さんが立ち上がった。鞄を閉じた。
俺も立ち上がった。出口に向かいかけて、振り返った。
女の枕元の水差しが空だった。台所に行って、水を汲んできた。枕元に置いた。
女がこちらを見た。何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
仲介所を出る時、ゴンザに薬の使い方を伝えた。ゴンザが頷いた。
「助かる。——灯里さん、ありがとうございます」
「いいえ。また来ます」
母さんの声はいつも通りだった。
帰り道。
林の道を並んで歩いた。
母さんは口を開かなかった。
鼻歌も歌わなかった。
いつもなら歌う。家に向かう道では必ず歌う。あの曲を。何の曲かは知らない。俺が拾われるよりずっと前から歌われている曲。
今日は歌わなかった。
風が林を抜けていった。灯草の花が揺れた。母さんの足音と俺の足音だけが聞こえていた。
「母さん」
「ん?」
「……何でもない」
「そう」
聞きたいことがあった。あの手つきの慣れ方は何だ。結晶の傷を何度も診たことがあるのか。あの目は何だ。三本爪の獣の時と同じ目をしていた。何を知っている。何を抱えている。
聞かなかった。
聞いても答えないだろう。いつもそうだ。
家に着いた。
母さんは工房に入った。戸が閉まった。
しばらくして、音がした。瓶を棚に戻す音。紙をめくる音。
鼻歌は、まだ聞こえなかった。
縁側に出た。
庭の灯草が風に揺れていた。白い花。
工房から、微かに音がした。瓶の音ではなかった。紙の音でもなかった。
泣いているのかと思った。
違った。鼻歌だった。小さな、小さな鼻歌。いつもの曲。やっと戻ってきた。
俺は黙って茶を淹れた。二人分。工房の戸の前に一つ置いた。
——聞かない。でも、茶くらいは置く。




