第4話 「線引き」
数日が経っていた。
町が変わっていた。
市場の通りを歩いていて、それがわかった。声の調子が違う。いつもなら商売の声が飛び交うだけの通りに、別の声が混じっている。低い声。刺すような声。
西通りの角で、二人の男が向き合っていた。
蒼嶺側の八百屋の親父と、ヴァルディア側の金物屋の主人だ。どちらも顔見知りだ。去年の秋には一緒に酒を飲んでいた。
「あの女を町から出すべきだろう。法がある。逃亡奴隷を匿えばこちらが咎められる」
「匿ってるわけじゃねえ。仲介所が預かってるんだ。中立だろうが」
「引き渡してどうなる。首輪が罪印に変わるだけだ」
「加担も何も、よその国の法だ。こちらの問題じゃない」
「門の前で倒れてたんだ。こちらの問題だろうが」
声が大きくなっていた。周りの客が足を止めている。
横から女の声が割り込んだ。
「あの女が来なければこんなことにはならなかった」
八百屋の隣の干物屋の女将だった。腕を組んでいた。
「一人のよそ者のせいで町中が割れてる。迷惑だよ。あの女を帰せば済む話じゃないか」
金物屋が頷いた。八百屋の親父が声を上げた。
「帰せって、どこに帰すんだ。あの状態で帰したら——」
「知らないよ。よその国の問題だろう。うちには関係ない」
関係ない。
干物屋の女将は間違っている。だが口が動いている。聞く耳はない。
この口論だけじゃない。ここ数日、似たような場面を何度も見た。茶屋の前で。仲介所の入り口で。夕方の路地裏で。
首輪一つで、町が割れた。
割れたという表現は正確じゃないかもしれない。元々あった線が、見えるようになっただけだ。蒼嶺の瓦とヴァルディアの石壁は昔から隣り合っていた。隣り合って、混じり合って、どちらでもない場所を作っていた。それが風越だった。
だが首輪一つで、線が引かれた。
俺は口論の端を通り過ぎた。どちらにも声をかけなかった。
仲介所に入ると、ゴンザが疲れた顔をしていた。
机の上に書類が積まれている。嘆願書のようなものが混じっている。
「ゴンザ」
「おう零時。——仕事か」
「ああ」
「北の丘の伐採と、東通りの排水路の修繕がある。どっちがいい」
「両方もらう」
「助かる」
ゴンザが茶を淹れた。目の下に隈がある。
「大変そうだな」
「大変だ。——蒼嶺側から匿えと言ってくる住民が十二人。ヴァルディア側から引き渡せと言ってくる住民が七人。どっちにも従えない。従えないと言っても聞かない」
「仲介所は中立だろう」
「中立だ。だから板挟みだ。——おい、中立ってのは楽だと思ってるだろう。一番きついのは真ん中だぞ。ハンスの一件がやっと落ち着いたばかりだってのに」
知ってる。真ん中が一番きつい。
「あの女はどうしてる」
「飯は食えるようになった。灯里さんの薬も出してる。少しずつ体力が戻ってきてる。——だが、ここにいつまでも置いておけるわけじゃない。所有者が来たら、法的には拒否できない」
「まだ来てないのか」
「来てない。来ないでくれと思っているが、遅かれ早かれだろう」
ゴンザが茶を啜った。重い啜り方だった。
「零時。お前、関わるなと言っただろう」
「関わってない。仕事を取りに来ただけだ」
「……奥の部屋に寄るなよ」
「寄らない」
ゴンザが茶碗を置いた。窓の外を見た。市場の通りを。
しばらくそうしていた。何か言いかけて、やめた。
ゴンザが茶碗を持ち上げた。話は終わりだった。
依頼票にギルドカードを当てた。
立ち上がって、仲介所を出ようとした。
奥の部屋の戸が、少しだけ開いていた。
また引っかかった。前にも見た。通り過ぎるつもりだったのに、目が向いた。
女が座っていた。毛布の端を膝にかけて、首の鉄輪と肌の間の布を直していた。枕元の水と乾いたパンが、きちんと並べ直してあった。
前より顔色が良かった。だが痩せている。目が深い。
首に、鉄の輪がついていた。腕が見えた。結晶と、その隣の空洞。
女がこちらを見た。
「——あんた」
「あんた、私をここに運んだ人だろう」
「……ああ」
「で、何。私を返すの」
「俺の仕事じゃない」
「じゃあなんでここにいるの」
答えが出なかった。
「……わからん」
「わからないのに来たの」
「来てない。通りがかっただけだ」
「嘘」
女が首を傾けた。首輪が少しずれた。鉄と肌の間に、薄い布が挟んであった。切れ端を丁寧に折りたたんで挟んでいる。手先が慣れた人間の折り方だった。
「嘘じゃない。——仕事を取りに来た」
「それだけ?」
「……それだけじゃないかもしれない」
自分で言って驚いた。何を言っている。
「ふうん」
女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
女は膝に顔を埋めた。
仲介所を出た。
北の丘に行った。倒木が三本。斧で枝を落として、幹を玉切りにした。汗が出た。風が冷たい分だけ、体が熱くなる。
丘の上から風越が見えた。蒼嶺の瓦とヴァルディアの石壁が、同じ通りに並んでいる。百年前は屋根が片手で数えられた。今はどこが境目なのかわからない。地上にいると見える線が、丘の上からだと見えない。
昼前に終わり、東通りに回った。排水路に泥が詰まっている。鋤で掻き出す。腕まで泥だらけになった。
銀貨十枚。丘が七枚、排水路が三枚。
昼を過ぎた。市場に戻ると、広場で集まりをやっていた。二十人ほど。蒼嶺側とヴァルディア側が向き合っている。朝の口論が広がったのだろう。
遠くから声が聞こえた。「守れ」「法に従え」「町が干上がる」。どれも正しい。どれも足りない。
結論は出なかった。人が散っていった。何も決まらないまま。
市場を通り抜けようとして、立ち止まった。
風越の通りは三本ある。東側の蒼嶺通りは瓦屋根と木の格子。茶屋と薬屋と八百屋が並んでいる。西側のヴァルディア通りは石壁と鉄の看板。宿屋と酒場と金物屋。真ん中に市場の広場があって、南の門から北の丘まで、歩いて四半時の小さな町だ。
蒼嶺側を行くか、ヴァルディア側を行くか。いつもなら考えもしないことだ。
どちらも避けた。二つの通りの間を走る路地に入った。石畳と土が交互に出てくる細い道。いつもなら子供が走り回っている。今日は誰もいなかった。
トーマの茶屋の前を通る。暖簾は出ているが、客が少ない。トーマがこちらを見て、口を開きかけ、閉じた。
林の道に入った。ここまで来ると、町の声は聞こえない。鳥の声と、風の音だけになる。
家に着いた。
「疲れた顔してるね」
「普通だ」
「普通じゃないよ。——お茶、淹れるね」
母さんが茶を淹れた。台所に座った。
「町はどう?」
「……荒れてる。蒼嶺側とヴァルディア側が割れてる。あの女のことで」
母さんが静かに聞いていた。
「蒼嶺側は匿えと言ってる。ヴァルディア側は法に従えと言ってる。——で、宿屋の主人が、匿ったら商人が来なくなるって言った。誰も言い返せなかった」
「あなたは」
「……俺は関係ない」
母さんが茶を啜った。間があった。
「零時」
「何だ」
「関係ないって自分で言ってるうちは、たぶん関係あるんだよ」
「意味がわからん」
「わからなくていいよ」
母さんが庭を見た。灯草の白い花を見ていた。
「明日、あの子をちゃんと診に行く。一緒に来てくれる?」
「……ああ」
母さんが立ち上がった。工房に向かった。鼻歌は歌わなかった。
夕飯を作った。昆布の汁物と漬物。母さんは出てこなかった。一人で食べた。
母さんの分を鍋に残した。
食器を洗った。窓の外は暗かった。
「じゃあなんでここにいるの」
あの声がまだ耳にある。
仲介所に、自分の体を掘られた人間がいる。壁にもたれて座っている。首に鉄の輪がついている。
俺は木を伐って、排水路を直して、飯を食って、茶を飲んだ。




