第3話 「結晶」
仲介所に向かった。仕事を探しに行くだけだ。
朝の林は静かだった。風はなく、灯草の花が動かずに立っている。
風越に着いた。市場は開いているが、昨日より人が少ない。東の門の近くを通る者が、足早に通り過ぎていく。昨日女が倒れていた場所だ。石畳に何も残っていないのに、人はそこを避ける。
仲介所に入ると、ゴンザが帳簿を広げていた。茶が二つ出ている。一つは冷めている。誰かが来て、帰ったらしい。
「仕事を探しに来た」
「嘘つけ」
何も言い返せなかった。
ゴンザが帳簿を閉じた。冷めた茶を俺の前に押した。
「少し話した」
「あの女が?」
「朝方に起きた。水を飲んで、飯を少し食って、ぽつぽつとな」
ゴンザが椅子の背にもたれた。
「身売りだ。家族のためにな。十六の時だと言ってた」
十六。俺がその歳の時に何をしていたか、もう覚えていない。
「最初の主人はまともだったらしい。革職人の爺さんで、飯も食えた、殴られたこともなかったと」
「その爺さんが死んだ。三年前だ。遺産の整理で競りに出された。次の主人が、結晶の値打ちに気づいた」
ゴンザが黙った。俺も黙った。その先は昨日聞いた。
「で、どうなる」
「法的には逃亡だ。仲介所で保護しているのは、あくまで一時的な措置だ。所有者が来たら、書類が揃っていれば拒否する根拠はない」
ゴンザが冷めた茶を啜った。俺も飲んだ。不味かった。
「仕事は」
「南の畑の見回りがあるが」
「いい。少し市場を回ってくる」
ゴンザが俺を見た。眉が動いたが、口は動かなかった。
仲介所を出かけた。廊下の奥。部屋の戸が薄く開いていた。
人影が見えた。壁にもたれて座っている。膝を抱えている。窓の外を見ていた。
顔は見えなかった。腕だけが見えた。結晶が光っている。その隣に、空洞。
通り過ぎた。
西通りの市場を歩いた。
足が遅くなった。目が、いつもと違う場所で止まる。
八百屋の隣に果物を並べている女がいた。腕に薄い布を巻いている。暑くもないのに、手首から肘まで。布の端から、淡い緑色の結晶が一つだけ覗いていた。
シェイルだ。前から知っていた。だが結晶を隠していることには、気づかなかった。
目を逸らした。じろじろ見るものじゃない。
乾物屋の前に来た。店主のトーマが木箱を並べている。手の甲に、小さな結晶が三つほど生えていた。琥珀色。陽の光で鈍く光っている。
「よう零時。何か要るか」
「……通りがかっただけだ」
トーマが手の甲を見せた。結晶は肌から自然に生えている。体の一部だ。
「生まれた時からあるよ。年とともに大きくなるんだ。爪みたいなもんだ」
「切ったらどうなる」
「切ったことはないが、生え直すらしいぞ」
「干し椎茸、いいのが入ったぞ」
「……じゃあ少し」
銅貨を渡す時、トーマの手の甲の結晶がまた視界を横切った。きれいだった。その隣に、空洞はなかった。誰にも削られていない。当たり前のことだ。当たり前のことが、今日は目についた。
帰り道、果物屋の前を通りかかった。
「りんごを一つ」
リザが目を上げた。
銅貨を渡して、りんごを受け取った。
仲介所の前を通りかかった時、見慣れたコートが見えた。
ルータが仲介所から出てきたところだった。書類を鞄にしまっている。商談を終えたらしい。
目が合った。ルータが微笑んだ。
「あ、先日市場でお見かけしましたね。ルータ・アルベルトです。アルベルト商会の」
名乗った。微笑んでいた。穏やかな物腰。だが目だけが笑っていなかった。市場で見た時と同じだ。
「零時だ」
「零時さん。お買い物ですか」
「通りがかっただけだ」
「今日はそればかりですね」
ルータが俺の手元を見た。干し椎茸の袋とりんご。
「茶でもいかがですか。ちょうど時間が空いたところで」
断るつもりだった。だが足が止まっていた。
「中で飲みますか。仲介所の受付、空いているようですし」
仲介所に戻った。ゴンザは奥に引っ込んでいた。受付に二人だけ。ルータが茶を淹れた。手慣れている。
「風越は良い町ですね。来るたびに落ち着きます」
「何度も来てるのか」
「ええ。取引先がありまして」
「奴隷商人が布や香辛料も扱うのか」
ルータの表情が一瞬だけ動いた。
「商売は広いほうがいいですから」
しばらく黙って茶を飲んだ。仲介所は静かだった。市場の声が壁越しに遠く聞こえている。
ルータが俺の手を見た。
「長いことやっていらっしゃいますね。この仕事」
「何でわかる」
「手を見ればわかります。剣を握る手です。それも、普通の人間の寿命より長く握っている」
口調は変わらなかった。穏やかなまま。
「商人にしては目が利くな」
「商人だから利くんですよ」
間があった。ルータの微笑が消えた。初めてだった。
「——お前も、誰かに拾われた口だろう」
声のかたちが変わっている。商人の声じゃない。もっと低くて、近い。
茶碗を握る指に力が入った。
拾われた。そうだ。俺は灯里に拾われた。三百十五年前に。
ルータがすぐに元に戻った。微笑が浮かんだ。
「すみません。商人の癖です」
「今のは商人の癖じゃないだろう」
「……ええ。そうですね」
ルータが茶を飲み干した。立ち上がった。
「零時さん。一つだけ」
「何だ」
「あの仲介所にいる女性のこと。——所有者の耳に入るのは、時間の問題です。小さな町ですから」
声が変わっていなかった。穏やかなまま。だが目が違った。商人の目ではなかった。
「来ますよ。遅かれ早かれ」
ルータが一礼した。
「ご縁があれば、また」
歩いていった。コートの裾が揺れた。左手の革手袋が古びて見えた。
仲介所の方を一度だけ振り返った。あの目。確認する目。
——来る。
りんごを齧った。甘かった。
家に着いた。
「ただいま」
「おかえり。——何それ、干し椎茸?」
「買った」
「珍しいね。零時が自分で買い物するなんて」
「たまにはする」
母さんが干し椎茸を水に浸けた。
台所で茶を淹れた。二人分。テーブルについた。
「今日、例の商人に会った。アルベルト商会のルータ」
「あら。どんな人だった?」
「……穏やかで、人当たりが良くて、目だけが笑ってない」
「嫌な人?」
「嫌じゃない。嫌じゃないのが厄介だ」
母さんが茶を飲んだ。
服にルータの香が残っていた。ヴァルディアの商人が使う香だ。振り払わなかった。
「母さん。シェイルの結晶って、何なんだ」
茶を口に運ぶ動きが一瞬遅れた。すぐに戻った。
「結晶?」
「ああ。体から生えてる、あれ」
「急にどうしたの」
「市場で見かけて、気になった」
母さんが目を落とした。間があった。
「……昔ね。変わってしまった人たちがいたの。ずっと昔。体が変わって、結晶が生えるようになった」
「名残みたいなものだよ、結晶は」
紙を広げた。式を書き始める手つきをした。話を終わらせる動作だった。
ペンが止まっていた。紙を見ていた。だが書いていなかった。
「……昔からある。シェイルの結晶は素材としての価値があるから。魔道具に使える。高く売れる。……だから、削る人間がいる」
声が低かった。
「ひどい話だな」
「……うん」
母さんが顔を上げた。
「仲介所のあの子——結晶の傷に効く薬を用意する。明日、届ける」
「……行くのか」
「普通の医者じゃ手が出せないと思うから」
母さんは立ち上がった。工房に向かいかけて、振り返った。
「零時、晩ごはん何がいい」
「何でもいい」
「干し椎茸で何か作ろうか」
「任せる」
母さんが台所に立った。鼻歌が聞こえた。あの曲だ。
テーブルに残った。茶は冷めていた。
ルータの声が残っていた。「来ますよ。遅かれ早かれ」。
あの男は知っている。こういう場面を何度も見てきた男の声だった。
生え直すから削る。削っても生え直す。止まらない。
台所から出汁の匂いがした。




