第2話「首輪」
朝日はまだ薄かった。
台所に行くと、母さんがもう起きていた。昨夜は珍しく早めに寝たらしい。テーブルに握り飯が二つ並んでいる。
「おはよう零時」
「おはよう。作ったのか」
「昨日の残りの飯で。焦げてないでしょ」
焦げていなかった。普通に食えた。
「今日は何の仕事?」
「行ってから決める」
「ふうん。あ、帰りに塩を買ってきて。切れそう」
「わかった」
支度をして、家を出た。普通の朝だった。
林を抜けた。萌月の風はまだ冷たいが、日に日に柔らかくなっている。道の脇に灯草の白い花が増えていた。
風越の街が見えてきた。いつもの朝市。瓦屋根の軒下に露店が出て、声が飛び交っている。
東通りから仲介所に向かおうとした時、人の流れが変だった。
いつもなら市場に向かう人間が、逆方向、東の門の方に歩いている。三人、四人。走っている者もいた。
人だかりができていた。
東の門の手前。街道から十歩ほど入ったところ。石畳の上に、人が倒れていた。
女だった。
痩せていた。腕が細い。衣服はぼろぼろで、もとの色がわからない。裸足だった。足の裏が黒く汚れて、ところどころ血が滲んでいる。長い距離を歩いた——いや、走った足だ。
首に、金属の輪がついていた。
錆びかけた鉄の輪。装飾はない。ただの金属。見たことはある。風越を通過する旅人に、時々つけている者がいる。
隷属の首輪だ。
女は動かなかった。気を失っている。息はある。浅いが、ある。
周りに人が集まり始めていた。朝市の客、通りがかりの住民、露店の店主。まだ十人程度だが、増えている。
声が上がった。
「水を持ってきて」
蒼嶺側の老婆だった。水瓶を抱えて走ってくる若い男がいる。
「待て。首輪だぞ」
ヴァルディア側の商人が腕を組んで言った。大きな声ではない。だが通る声だった。
「見えてるよ。だから何だい。倒れてるんだよ」
「逃亡奴隷だ。下手に手を出すな。面倒なことになる」
「人が死にかけてるのに面倒もへったくれもあるかい」
「法があるだろう。首輪がついている以上——」
「法はあんたの国の法だ。ここは蒼嶺だ」
「ここは国境だろう。ヴァルディアの法も——」
声が重なった。二人だったのが、三人になり、四人になった。蒼嶺側の住民が水を運び、ヴァルディア側の住民が腕を組む。くっきりと分かれた。
俺は人だかりの端に立っていた。
女の腕が見えた。
結晶があった。
左の腕から肩にかけて、透明に近い淡い青の結晶が肌から生えている。朝日を受けて、微かに光っていた。
シェイルだ。
風越にもシェイルは何人かいる。市場に店を出している者もいる。結晶を持った亜人。珍しくはない。
だが——
結晶の一部が、おかしかった。
自然に生えている結晶の間に、空洞があった。結晶があるべき場所に、何もない。抉り取られたように肌がへこんでいる。傷痕が赤黒く残っている。古い傷と新しい傷が混在していた。
一つや二つではなかった。腕だけで五、六箇所。肩にも。服の隙間から見える背中にも。
自然の結晶が光を受けて静かに輝いて、その隣に、抉られた空洞が口を開けている。
「——おい、何の騒ぎだ」
ゴンザだった。仲介所から駆けてきたらしい。額に汗をかいている。
人だかりの間を割って入り、倒れた女を見下ろした。首輪を見た。結晶を見た。傷を見た。
顔が変わった。
「触るな。水だけ寄越せ」
ゴンザが老婆から水瓶を受け取り、女の唇を湿らせた。顔を近づけて呼吸を確認する。
「生きてる。——おい、誰か布を」
「ゴンザ、逃亡奴隷だぞ。勝手に——」
「知ってる。だから仲介所で預かる」
ゴンザが立ち上がった。声がでかい。いつもの声よりさらにでかい。
「仲介所は中立だ。法も通す、人道も通す。文句があるなら後で書面で出せ。今はこの女を運ぶ。零時、手を貸せ」
名前を呼ばれた。
俺は人だかりの端にいたはずだが、いつの間にか三歩ほど前に出ていた。
「……ああ」
女の体を持ち上げた。軽かった。驚くほど軽い。骨と皮だけだ。
いろんな人間を背負ってきた。怪我人も、酔っ払いも、動けなくなった老人も。こんなに軽い体は初めてだった。人間一人分の重さがない。
抱え上げた時、左腕の結晶が俺の腕に触れた。硬い。石のような感触。冷たかった。
その隣の空洞にも、指が触れた。ざらついた傷痕。結晶が削り取られた跡だ。新しいものは肌がまだ赤い。
腕の中で、こいつの体がかすかに震えていた。寒いのか、怖いのか。わからない。腕に力を入れた。落とさないように。壊さないように。
首輪が近くで見えた。何の変哲もない鉄の輪だ。魔道具ですらない。ただの金属。鍛冶屋で打てるようなもの。
こいつを縛っているのはこの鉄だ。
仲介所まで運んだ。奥の部屋に寝かせた。ゴンザが毛布を持ってきて、水と乾いたパンを枕元に置いた。
「医者は」
「呼んだ。すぐ来るだろう」
女はまだ意識がなかった。毛布の上から、首輪の縁が見えている。
ゴンザが腕を組んで女を見下ろしていた。
「身売りだな」
「わかるのか」
「首輪の型でわかる。債務か身売りかは微妙だが、こいつは身売りだ。細工が安い。サハリナかヴァルディアの南部で出回ってる量産品だ」
ゴンザは首輪を何度も見たことがあるのだろう。俺にはただの鉄の輪にしか見えない。
「逃げたのか」
「首輪つけたまま街道にいたんだ。逃げたんだろう。逃亡は犯罪だ。捕まれば罪印に格上げされる可能性がある」
罪印。魔道具の焼き印。首輪と違って、あれは体に直接刻まれる。行動を制限する。命令に逆らえば痛みが走る。
首輪は外せる。罪印は消えない。
「今のところはここで預かる。中立の立場でな。——蒼嶺側が匿えと言い出すだろうし、ヴァルディア側は返せと言うだろう。どっちにも従えない」
「厄介だな」
「厄介だ。だが放っておけば門の前で死ぬ。死体の処理のほうがもっと厄介だ」
ゴンザの言い方だ。いつもこうだ。感情を挟まずに、実務で語る。
「零時。お前はこの件に関わるな」
「関わるつもりはない」
「そうか。じゃあ仕事の話をするか。南の畑がまた荒れてるらしい」
「報酬は」
「銀貨五枚」
「行く」
依頼票にギルドカードを当てた。
出る時に、一度だけ振り返った。奥の部屋の戸は半開きで、毛布の上から女の腕が少しだけ見えていた。結晶が光っていた。その隣の空洞が、影を落としていた。
仲介所を出た。
南の畑は鹿だった。柵の隙間から入って、芽を食い荒らしている。追い払って、柵を直した。銀貨五枚。
昼過ぎに終わった。
帰りに塩を買った。母さんに頼まれていた。市場はいつも通りだったが、あちこちで小声の話が聞こえた。
「東の門で——」
「首輪が——」
「シェイルの——」
小さな町だ。朝の出来事はもう広まっている。
蒼嶺側の八百屋の婆さんが、隣のヴァルディア側の肉屋の主人と言い合っているのが見えた。声は小さいが、顔は険しい。
昨日までなかった溝が、朝一つの首輪で現れた。
俺は塩を買って、歩いた。
仲介所の前を通りかかった。寄るつもりはなかった。
ゴンザが外に出ていた。煙草を吸っている。普段は吸わない男だ。
「起きたか」
足が止まっていた。
「起きた。水だけ飲んで、また寝た。医者が診たが、衰弱以外に命に関わるものはないそうだ」
「そうか」
「結晶の傷は、まあ、医者の範囲じゃないらしいがな」
ゴンザが煙を吐いた。
「あれ、身削りだ」
「身削り」
「シェイルの結晶を削り取ることだ。素材になる。魔道具の。高く売れるらしい」
知らなかった。この町に来てからずっと、シェイルの店主の手の甲の結晶は見ていた。きれいだな、と思ったことはある。それが金になるとは知らなかった。
「削ったら生え直す。だからまた削れる。そういう仕組みだ」
ゴンザの声は平坦だった。事実だけを並べる。
「逃げた理由はそれか」
「たぶんな。詳しいことは本人が話せるようになったら聞く。——聞かないほうがいいかもしれんがな」
ゴンザが煙草を踏み消した。
「塩、溶けるぞ」
手に提げた塩の袋を見た。握りすぎて、手が汗をかいていた。
「……ああ」
歩いた。
家に着いた。
母さんは工房にいた。何かをすり潰す音がしている。
「ただいま」
「おかえり。塩は?」
「買ってきた」
「ありがとう。あ、それちょっとそこに置いといて」
台所に塩を置いた。茶を淹れた。二人分。
母さんが工房から出てきた。手にインクの染みがついている。
「今日はどうだった」
「鹿。南の畑」
「またか。柵が弱いのよねあそこ」
「直した」
「器用ねえ」
「器用じゃない。力任せだ」
茶を飲んだ。
言わなかった。
「零時?」
「なんだ」
「ぼんやりしてる」
「してない」
「してるよ。茶、冷めてるよ」
湯呑みを見た。確かに冷めていた。
「……疲れただけだ」
「ふうん」
母さんは何も言わなかった。紙を広げて式を書き始めた。
俺は冷めた茶を飲み干した。
夕飯を作った。干し肉を焼いて、菜を煮た。母さんは食べながら式の話をした。配合比がどうとか、温度がどうとか。俺には半分もわからない。変わらない夕飯だ。
「ごちそうさま」
「母さん、今夜は寝ろ」
「寝るよ。たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「はいはい」
食器を片付けた。
縁側に出た。
夜の空気は冷えていた。春の始まりだが、夜はまだ冬の名残がある。
灯草が白い花をつけている。暗がりの中で、ぼんやり光って見えた。
結晶のことを考えていた。
あの女の腕。透明に近い青の結晶。朝日を受けて光っていた。きれいだった。
その隣の空洞。抉り取られた跡。赤黒い傷痕。古いのと新しいのが混在していた。
削って、生え直して、また削られた。何回繰り返されたのか。
首輪はただの金属だった。鉄の輪。何の力もない。外そうと思えば外せる——法がなければ。
工房の明かりが廊下に細く漏れていた。寝ると言ったくせに。
明日、仲介所に行く。あの女がどうなるのか、聞いてみる。
——聞いてどうする。
わからない。だが聞く。




