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第1話「商人」

 台所から鼻歌が聞こえて、目が覚めた。

 あの曲だ。何の曲かは知らない。俺が拾われるよりずっと前から歌われている曲。

 起き上がると、窓から陽が差し込んでいた。思ったより遅い。昨夜は寝つきが悪かった。理由は覚えていない。

 台所に行くと、母さんがテーブルで紙を広げていた。式がびっしり並んでいる。俺には読めない。一度も。

 鼻歌の出所は工房ではなく台所だった。紙が三方向に散らばり、棚から出した瓶が四つほど並んでいる。朝飯の気配はない。

「おはよう零時れいじ

「おはよう。飯は」

「あ」

 この「あ」は「忘れてた」の「あ」だ。長い付き合いで聞き分けられる。

 干し肉とパンを棚から出した。慣れた段取りだ。

「ねえ零時、ちょっと見て。この式なんだけど——」

「見てもわからん」

「聞いてよ。配合比を変えたら面白いことになって——」

「朝飯食ってから聞く」

「冷たいなあ」

 冷たいんじゃなくて腹が減っている。干し肉を噛みながら母さんの顔を見た。目の下に薄い隈がある。また夜通しやっていたらしい。

「寝てないだろ」

「寝たよ。少し」

「少しってどれくらいだ」

「……三刻くらい?」

「寝ろ」

「でもこれ今日中に——」

「寝てからやれ」

 母さんは唇を尖らせたが、反論はしなかった。反論しない時は、自分でも限界だとわかっている時だ。

「じゃあ零時が帰ってきたら起こして」

「わかった」

 母さんは紙と瓶を抱えて工房に消えた。寝るのか作業するのかどっちだ。たぶん工房の椅子で突っ伏して寝る。いつもそうだ。首が痛くならないのか毎回不思議だ。

 パンを齧り終えて、支度をした。腰に二振り。アイテムバッグ。

 玄関で草履を履く。

「行ってくる」

 返事はなかった。もう寝ている。早い。



 萌月ほうげつの風が林を抜けていった。冬の名残を洗い流すような、柔らかい風だ。

 道の脇の灯草ともしそうが、ぽつぽつと白い花をつけ始めていた。春の花だ。庭のやつはとっくに咲いている。季節を先取りしているのか、うちだけ気候が違うのか。母さんは何も言わないし、俺も訊かない。

 風越かぜこしの街に着くと、朝市がもう始まっていた。瓦屋根の軒下と石壁の庇が向かい合う通りに、露店が出ている。人間も亜人も関係なく声を上げていた。国境の街だ。いつもの朝。

「おう、零時。今日も早いな」

 仲介所のゴンザだ。がたいのいい中年の男で、声がでかい。

「何かあるか」

「あるぞ。東通りのシマさんとこの水路掃除と、北の丘の薬草採り。あとは南の畑の見回りだが——」

「水路と薬草で」

「おう。水路は銀貨五枚、薬草は種類ごとに一枚だ。リストはこれな」

 依頼票にギルドカードを当てた。光が走る。薬草のリストを受け取った。三種。

「あ、そうだ零時。一つ言っとくことがある」

 ゴンザが茶を啜りながら、声を落とすでもなく言った。

「ヴァルディアから商人が来てる。昨日の夕方に西の門から入った」

「商人なんか珍しくないだろ」

「奴隷商人だ」

 俺は依頼票をしまいかけた手を止めなかった。止める理由がない。

「許可証は」

「持ってる。正規だ。帳簿も見せてきた。丁寧な男だったよ」

「ふうん」

「まあ、一応な。国境の町だから、たまにこういうのは来る。今のところ問題はない」

「なら別にいいだろ」

「ああ、別にいい。——ただ蒼嶺そうれい側の年寄りが何人か顔しかめてたから、一応な」

 風越では珍しくもない。蒼嶺国は奴隷制度を忌避している。ヴァルディアは規制のもとに容認している。この町には両方の住民がいるから、奴隷に関わる何かが入ってくると空気がほんの少し変わる。いつもすぐ元に戻る。

「わかった」

「おう。気をつけてな」

 気をつけるも何もない。俺は水路掃除と薬草採りに行くだけだ。



 シマさんの水路は、思ったより詰まっていた。

 木の根が底に這い込んで、泥と枯れ葉と一緒になって水の流れを塞いでいる。腰まで水に浸かって根を切り、泥を掻き出した。刀の出番はない。鎌と手と膝だ。

 長く冒険者をやっていると、仕事の八割がこういうものだと身に染みている。獣を狩ることでも人を斬ることでもなく、水路の泥を掻き出すことだ。

 昼過ぎに水が通った。シマさんが茶と握り飯を出してくれた。遠慮なくいただいた。

「ありがとうねえ。毎年この時期に詰まるのよ」

「根が太くなってます。来年はもっと詰まるかもしれない」

「えー。じゃあまた頼むわね」

 木を一本切ったほうが早い気もしたが、言わなかった。来年の銀貨五枚が消える。



 北の丘で薬草を三種採った。紅葉草もみじそう苦根にがね風知草かざしりそう。全部知っている草だ。母さんの使い走りで嫌というほど覚えた。

 リストの三種を採り終えて、丘の上から風越を見下ろした。

 小さな街だ。瓦屋根と石壁が入り混じって、その向こうに蒼嶺国の山並みが青く連なっている。西を向くと、なだらかな丘陵がヴァルディアの方角へ続いていた。

 風が西から吹いていた。少し湿っている。

 何でもない景色だ。見飽きたはずの景色だ。



 仲介所に戻って薬草を出すと、ゴンザが一つずつ確認した。

「紅葉草、苦根、風知草。——よし、全部揃ってる。三枚な」

 水路の五枚と合わせて銀貨八枚。地味な一日だが、こんなものだ。

「商人はまだいるのか」

 自分でも思っていなかった言葉が口から出た。ゴンザが少し驚いた顔をしたが、すぐ戻した。

「おう。宿に泊まってる。何日かいるらしい。取引先を回るんだとよ」

「取引先」

「風越にも得意先がいるんだろ。奴隷を売りに来たんじゃなくて、普通の商売もしてるらしい。布とか、香辛料とか」

「器用な商人だな」

「アルベルト商会っつったかな。ヴァルディアではそこそこ名が通ってるらしいぞ」

 ゴンザは別の話に移った。南の畑は最近荒れていないとか、ドルンが新しい鉈を打ったとか。他愛もない話だ。

 仲介所を出た。



 西通りの市場を抜けて帰ろうとした時だった。

 人が数人、一人の男と話していた。人だかりというほどでもない。店主や通りがかりの住民が三、四人、足を止めている程度だ。

 男が目に入った。

 長身だった。風越の人間より頭一つ高い。金髪をオールバックにまとめ、ヴァルディアの商人らしいコートを着ている。仕立てがいい。風越では浮くくらいに洗練された身なりだ。

 男が何か言って、相手の店主が笑った。穏やかな声。人好きのする物腰。通りすがりの人間が足を止めるくらいには感じのいい空気を纏っている。

 男がこちらを向いた。

 目が合った。何かが引っかかった。

 男が軽く会釈した。通りすがりの挨拶。俺も軽く頷いた。

 すれ違った。

 数歩進んで、振り返った。男は市場の通りを歩いていた。途中で足を止めて、仲介所の方を見ていた。仲介所に用がある商人は珍しくないが、あの目は用事の目じゃなかった。何かを確認する目だった。

 すぐに歩き出した。

 背中を過ぎた後に、微かに香が残った。ヴァルディアの商人が好む類の香だ。

 左手に古びた革手袋をはめていた。右手は素手だった。片手だけ。



 家に着いた。

 玄関を開けると静かだった。母さんはまだ寝ているらしい。起こす約束だったが、もう少し寝かせてもいいだろう。

 台所で茶を淹れた。一人分。縁側に出て、庭を見ながら飲んだ。灯草が白い花をたくさんつけている。冬の間も枯れなかった。一株だったのが、いつの間にか五、六株に増えている。

 銀貨八枚。水路と薬草。明日もたぶん似たような仕事がある。それでいい。

 茶を飲み干した。



 工房の戸を叩いた。

「母さん、起きろ」

 返事がない。開けると、案の定、作業台に突っ伏して寝ていた。紙を枕にしている。頬にインクがついている。

「おい。夕方だぞ」

「……ん。……あと少し……」

「朝もそう言ってた」

 母さんがのろのろと顔を上げた。頬に式が反転して写っている。

「おかえり。何時」

「夕方」

「あら。寝すぎた」

「寝足りてないだろ」

「寝足りてない」

 正直な人だ。

 母さんが顔を洗いに行っている間に、夕飯の支度をした。残りの飯と干し肉を温めて、漬物を出した。湯を沸かす。

 母さんが戻ってきた。髪がまだ跳ねている。

「零時が作ってくれたの」

「温めただけだ」

「優しいねえ」

「腹が減っただけだ」

 食べた。

「今日は何してたの」

「水路掃除と薬草採り」

「地味ねえ」

「地味で結構だ」

「薬草何採ったの」

「紅葉草と苦根と風知草」

「あ、風知草いいな。余ってたらちょうだい」

「仲介所に出した。自分で採ってこい」

「えー」

 文句を言いながら漬物をつまんでいる。いつもの夕飯。

「そういえば、ヴァルディアから商人が来てるらしいぞ」

 漬物をつまむ手が止まらなかったのに、口だけが先に走った。

「へえ。何の商人?」

「奴隷商人だ」

 母さんの箸は止まらなかった。

「風越じゃ珍しくないでしょ」

「ああ。珍しくない」

「何か気になることでもあった?」

「別に。ゴンザが言ってただけだ」

「ふうん」

 母さんは煮物を食べ終えて、茶を飲んで、紙を広げた。式の続きらしい。

「今夜も起きてるのか」

「うん。さっき寝たから大丈夫」

「嘘つけ」

「嘘じゃないよ。六刻も寝たんだから」

 六刻。半日近い。あれを寝すぎたと言っていたのか。母さんの時間感覚はいつまで経っても掴めない。

 食器を片付けて、縁側に出た。

 夜の空気は少し冷えていた。虫の声が遠くに聞こえる。

 西から風が吹いていた。昼間より乾いている。ヴァルディアの方角。なだらかな丘陵の向こうに、俺が知らない街が幾つもある。

 明日もたぶん似たような一日になる。それでいい。


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