第10話「傷跡」
朝。目が覚めた。
天井が違った。仲介所の天井じゃない。木の梁が太い。古い家の天井だ。
灯里さんが言った。「治療を続けるなら、うちの方が近いよ」。理由はそれだけだった。嘘かもしれない。でも断る理由もなかった。「いてもいい?」と聞いたら、「いいよ」と笑った。
客間だと言われた。小さな部屋。窓がある。窓の外に森が見える。風の匂いがする。仲介所の匂いじゃない。木と、土と、どこかから薬草の匂い。
首に手をやった。毎朝やる。ないことを確かめる。
白い線だけが残っている。輪の形。触ると凹んでいる。消えない。
自由になった。あの男が言った。「蒼嶺の法で、お前は自由だ」。
言葉は聞いた。まだ体に届いていない。でも——ここにいる。あの仲介所の壁ではなく、この家の壁にもたれている。
台所から音がした。鍋の音。水の音。
おばさんの声。「おはよう零時」「おはよう」。あの男の声。低い。
足音が廊下を来た。戸の前で止まった。
あの男だ。
戸は開けたままにしていた。閉めると仲介所の奥の部屋を思い出すから。
湯呑みを二つ持っていた。
「茶」
一言だけ。差し出された。受け取った。温かかった。
一口飲んだ。薄い。灯里さんが淹れる茶とは違う。あの人の茶は濃い。この人の茶は薄い。
「……この家の人は、みんなお茶の濃さが違うんだね」
「そうか。気にしたことがない」
嘘。気にしてないのに、二つの湯呑みを別々に淹れている。自分では気づいていないのだ。
部屋に入ってきた。壁の反対側に座った。二歩分の距離。仲介所でもそうだった。この人はどこにいても同じ距離を取る。
顔を見た。若い顔だ。たぶん私より少し上くらい。でも目が違う。目だけが古い。ずっと長いものを見てきた目。何年とか何十年とかじゃなくて、もっと。うまく言えない。
手が荒れていた。指の皮が厚い。刀を握る手と、斧を振る手が、同じ手にある。仕事の手だ。
しばらく黙っていた。黙っていることに耐えられる人だ。普通の人は沈黙が怖くて喋る。この人は黙ったまま座っている。
腕の結晶をなぞった。自然に生えた結晶の縁。指で辿った。
「……自由って、何すればいいの」
「何でもできる」
「何でもって何」
男が詰まった。
「……考えたことがない」
「考えたことないの。自由にしたくせに」
「ああ」
呆れた。自由にしておいて、自由が何かわからないって。
でも、正直だ。この人は正直だ。わからないことをわからないと言う。
膝に顔を埋めた。
話そうかどうか、迷っていた。昨日から。あの男が「自由だ」と言った後、ずっと。
首輪をしていた頃、声は要らなかった。返事と謝罪以外の言葉を使わなくなった。自分から何かを言う習慣が、いつの間にか消えていた。喉が覚えていない。
ゴンザさんからは聞いているはずだ。私のこと。経緯は知っている。でもゴンザさんの口から聞くのと、私の口から聞くのは違う。
顔を上げた。
「いいよ。私の口から言う」
「父が病気になった。畑ができなくなった。弟が二人。小さかった」
声が出た。思ったより平らな声だった。
「誰かが稼がなきゃいけなかった。母はもういなかったし、弟たちはまだ何もできない。——だから売った。自分を」
「十六で」
「十六で」
十六。あの日のことは覚えている。覚えているのに、遠い。他人の話のように聞こえる。
「買ったのは爺さんだった。ヴェルデンっていう町の革職人。年寄りで、独り身で、仕事場に人手が要るって」
爺さんの顔を思い出した。皺だらけの顔。大きな手。不器用な笑い方。
「仕事を教えてくれた。革の鞣し方。裁断。縫い方。飯も食えた。屋根もあった。殴られたことは一度もない」
男は黙っている。聞いている。聞き方がいい。相槌を打たない。頷きもしない。ただ、そこにいる。
この人は私を憐れんでいない。ゴンザさんは優しいけど、たまに目が痛い。灯里さんは怒ってくれるけど、怒りの下に悲しみがある。この人は——何もない。ただ聞いている。それが一番楽だった。
「首輪はついてた。ずっと。でも、忘れる日もあったの。仕事をして、飯を食って、寝て。次の日も同じことして。首輪がどうでもよくなる日があった」
窓の外を見た。風越の屋根が並んでいる。知らない町だ。爺さんの町とは違う。
「悪くなかった。本当に、悪くなかったの」
嘘じゃない。本当に。
黙った。次の言葉が重い。ここから先が重い。
「爺さんが死んだ。朝起きたら、仕事場の椅子に座ったまま死んでた」
声を平らにした。平らにしないと、喋れない。
「身寄りがなかったから、遺産が整理された。家と、道具と、革の在庫と——私。競りに出された。家畜と同じ場所で」
「買ったのがベルクだった」
その名前を口にした時、指が止まった。自分の腕を見ていた。結晶と空洞が並んでいる腕を。
「最初は何も言わなかった。掃除をしろ、飯を作れって。普通の使用人みたいに。三日目に、腕の結晶を見つけた」
腕をまくった時だった。見えた。ベルクの目が変わった。あの目は忘れない。
「最初は小さいのだけ。端のほうの、目立たない結晶を一つ。道具を使って削り取った」
痛かった。覚えている。覚えているのに、声は平らだ。平らにしている。平らにしないと壊れる。
「痛かった。すごく痛かった。でも一回で終わると思ってた。——生え直した。一月くらいで」
男が何か言いかけた。飲み込んだ。
「また削った。今度は二つ。次は三つ。——慣れるよ。痛みには。慣れるのが一番ひどいのかもしれない」
空洞を指でなぞった。ゆっくりと。一つ一つ。数えるように。
「生え直すの。それが一番ひどい」
肩が震えた。一度だけ。
止めた。止めたのか止まったのか、わからない。指を空洞の上に戻した。
「生え直さなければ、止めてくれるから。一回で終わる。でも生え直すから、また来る。体が勝手に治すの。治さなくていいのに」
黙った。
男の手を見た。膝の上で拳を作っていた。爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。
この人は怒っている。私の代わりに。
怒ってくれる人がいるんだ、と思った。変な感じだった。
爺さんは優しかった。でも怒らなかった。ベルクの前でも、競りの時も。誰も私のために怒らなかった。
この人が初めてだった。
腕を持ち上げた。窓からの光に当てた。
「見て」
男が見た。
「ここ。これは自然に生えた結晶。子どもの頃からあるやつ。きれいでしょ」
きれいだ。わかっている。自分の腕だ。一番きれいな部分。
「で、ここ」
指を少しずらした。空洞の隣。新しく生え始めた結晶。
「これは取られた後に生え直したやつ。色が違うの、わかる?」
男が見ている。わかっている顔だ。
「濁ってるの。同じ場所から生えてくるのに、前と同じにはならない」
腕を下ろした。
「自然に生えたのは、私のもの。——取られたところに生え直したのは、私のものなのかどうか、わからない」
聞きたいことがあった。ずっと。
「あんたに聞きたいことがある」
「何だ」
「最初の主人——革職人の爺さんは、いい人だった。飯をくれた。仕事を教えてくれた。殴らなかった」
「ああ」
「いい主人のもとでの奴隷は……悪いことだった?」
男が黙った。長い沈黙だった。
「……わからん」
「わからない、か」
少し笑った。この人はいつもそう言う。わからない。正直に。
「私もわからないの。爺さんのところにいた時、幸せだったかって聞かれたら——たぶん、うん、って答える。首輪がついてても」
おかしいでしょ。首輪がついてて幸せだなんて。
「でも、爺さんが良かったから——首輪のことを忘れられた。忘れたから、外そうとしなかった。外そうとしなかったから——ベルクのところに行くことになった」
「あんたに聞いてもしょうがないか。あんた、奴隷じゃないもんね」
「……ああ」
「でも聞ける人がいないの。ゴンザさんは中立だから答えない。あの錬金術師の人は優しすぎて答えられないと思う。あんたは——」
「俺は何だ」
「わからないって正直に言う人。——だから聞いた」
答えは出なかった。出なくていい。聞けただけでいい。
名前を言おうと思った。
この人は私の名前を知らない。ゴンザさんも言っていないはずだ。書類には番号しか書いていなかった。
名前は……最後に自分で言ったのはいつだろう。爺さんに言った。最初の日に。「ミーナです」って。
「ミーナ」
口から出た。
「何だ」
「名前。私の」
男が少し驚いた顔をした。すぐに戻った。
「ああ」
低い声だった。いつもと同じ声。でも名前を受け取った後の「ああ」は、違って聞こえた。
それだけだった。それだけでよかった。
首に手を触れた。白い線。輪の形。
「……軽い」
声が震えた。
「軽い。——こんなに軽かったっけ。首って」
男は何も言わなかった。
指が白い線の上を何度もなぞった。消えない線。これからも消えない線。
体が覚えている。金属がなくなっても。
でも——軽い。重さがないことが、こんなに怖いとは思わなかった。重さに慣れていたから。重さがなくなると、自分の首が自分のものじゃないみたいだ。
男が立ち上がった。
「仕事に行く」
「うん」
「明日も来る」
「……嘘でしょ」
「嘘じゃない」
男が出ていった。
部屋の空気が少し変わった。さっきまでそこにいた人間の体温が消えていく。森の匂いが残っていた。木と、土と、少しだけ汗の匂い。嫌じゃなかった。
一人になった。壁にもたれた。天井を見た。木の天井。
ミーナ。自分の名前を、声に出して言ってみた。小さな声で。誰にも聞こえないように。
私の名前だ。首輪がなくても。




