見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第二十四話
「ちゃんと自力で泳ぎなさいよ!だいたいアンタが脱走なんか企てるからこんな真似しなきゃならなくなったんでしょうが!アンタ何様のつもりですの!」
黒装束のエレーヌは、どうにかサリエルを足が立つ深さの所まで引きずって来た。川は一昨日の雨で増水していて、濁りも強く、流れも早かった。
まるで泳ごうともしないサリエルは、目を細めたまま、顔を上にしてただ浮かんでいたが……やがて、震える声で呟いた。
「バ……バカじゃないの……」
「は?何ですって?」
「お嬢様はおバカであらせられますか!!」
サリエルは突然そう叫び、立ち上がる。
水深はまだ二人の膝の深さ程まであった。
「バッカじゃございませんの!!何故!!どうしてこの途方もなく無謀で凶悪な行動力を、リシャールさんに向けませんの!?」
思わぬサリエルの激高に、エレーヌはたじろぐ。
「お嬢様は少々世の中をお舐めあそばされてはおりませんか!?お嬢様がいくら世界一美しい伯爵令嬢だからって、あのレベルの男がそうそうホイホイ転がり込んで来るとお思いですか!?男気、甲斐性、フィジカル、全部があれだけハイレベルで揃っている上に誠実さまで備えた美丈夫、またすぐ現れるとお思いですの!?バカじゃございませんの!?」
「ちょ、ちょっと……落ち着きなさいサリエル……」
エレーヌはサリエルの肩に手を置こうとしたが、サリエルはその腕を素早く掴むや……女主人に一本背負いを掛けて川に投げ込んだ。
――ドボーン!!
「だいたい!!お嬢様はリシャールを捕まえる為に何をなさいましたの!?何もなさっていないのでしょう!?それなのに向こうから勝手に罠に落ちて来て、そんな僥倖何度も続くと思いますの!?」
頭にカエルを乗せたまま、エレーヌはどうにか半身を起こす。
「アンタは解ってないのよ!!私は伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートですのよ!!」
立ち上がったエレーヌの頭からカエルが落ちる。エレーヌは狼犬のようにサリエルに飛びかかる。
「そんなのはうんざりする程!お伺いしてますわ!!」
「何度言っても!アンタが解んないから!言ってんのよ!!」
二人のうら若き乙女が、川に膝まで浸かったまま掴み合う。
「何度言われたって……!解りませんわ……!伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートだったら何なんですか……月が西から昇るんですか……幸せになってはいけないんですか!!」
「帰るわよ、屋敷に」
「お答え下さい!」
「帰るのよ!」
エレーヌはサリエルに絡み、しがみつく。単純な力比べではサリエルの方がかなり強いのだが、元々サリエルの方から始めた喧嘩ではない。先にやる気を無くしたのもサリエルの方だった。
サリエルの腰の辺りにしがみつき、上目使いで威嚇して来るエレーヌ。
やがてサリエルは体の力を抜き、ぐったりと首を垂れる。
「帰るわよ!!」
「……かしこまりました」
小学校をさぼって河原で遊んでいたのか、十歳くらいの男の子が三人、泥だらけでつかみ合う二人を指差し笑っていたが、喧嘩をやめたエレーヌが今度は三人に襲いかかるような仕草をみせると、悲鳴を上げながら逃げて行く。
その日の夜には、カトラスブルグ警察は伯爵屋敷にやって来た。
金髪で背の高い少女が馬で列車強盗紛いの事をしたという初期情報だけで、それなら伯爵令嬢ではないかと考えたらしい。
「ぎゃあああああああ~!!」
サリエルを待つ為に自らレアル中央駅に出向いたクリスティーナも、列車強盗の話を駅員より聞き、その足でカトラスブルグを訪れていた。
クリスティーナがエレーヌを捕え家族用リビングで折檻する中、ディミトリやサリエル本人が警察への対応に当たった。その結果、エレーヌには後日出頭が命じられたものの、ひとまずはその場で逮捕という事態は避けられた。
さらに、翌日早朝。
「申し訳ありませんでした、奥様……」
ディミトリとサリエルに見送られ、クリスティーナはレアルに帰ろうとしていた。
「全く……仕事はこれからよ……今回の事を揉み消すのにいくらかかるか……伯爵家所有の、炭鉱会社の一つくらい吹き飛ぶんじゃないかしら」
正門ではトマが門番をしていて、ちょうど新聞を配達員から受け取っている所だったが、そのトマが……紙面を見るや、息せき切って駆けて来る。
「あ、あの!新聞に、これが……!」
『カトラスブルグで列車強盗、乗客の一人を略取し逃走』
大見出しと共に一面を飾るその写真は、スローチハットにアイマスク姿のエレーヌが、インバネスコート姿のサリエルの首を抱え、銃を突き付けながら歯を剥いて笑った所だった。
「きゃあああ!?」
「どういう事!?サリエル!?」
「そ、そういえばあの瞬間、誰かがフラッシュを焚いたような……し……新聞記者か何かが乗り合わせていたのですわ……」
サリエルの人生三度目の写真。
一度目はアンドレイが撮った、半分見切れた学園内での盗撮写真。
二度目は写真館で撮られた、複数枚の男装写真。
三度目はこの、列車強盗と一緒に撮られた報道写真。
自分はあまり写真という物にいい縁がないのではないかと、サリエルは思った。
それから数日が過ぎた。
エレーヌは学院でも一週間の謹慎処分となった。警察の方は早くも登場した大弁護士軍団に嫌気が差して、早々と送検を見送ったが、学校の方はそうは行かなかった。
屋敷で大人しく謹慎する気は無いのか、エレーヌはきちんとした乗蘭を着込み、平日の午前中から乗馬クラブにやって来ていた。
今日のエレーヌは棒を振り回したりもせず、飛越やクロスカントリーに興じる事もせず、ただきちんと馬を動かす基本動作を繰り返し練習させていた。
「……どう、どう……よし、よし……」
エレーヌが乗っているのはクラブ所有の馬で、少し歳が行っている上にそこまで賢くない、今一つの馬である。軍歴は華やかだが庶民の出であるモンティエが最近常用していた馬だ。
誕生日の夜にモンティエが乗って来て、これ以上ないタイミングでモンティエの為に山車に近づき、二人を助けてくれたのがこの馬である。
そういう心根のよい優しく勇敢な馬ではあるのだが。馬術大会となると、ローゼンハーク男爵が乗って来るような、エリートの中のエリートのような乗用馬にはなかなか敵わない。
それでいつもコンテストではモンティエはローゼンバークの後塵を拝するのだが。
「はい、はい……どう、どう……」
モンティエが居ればモンティエがやっていたと思われる地道な調教を、エレーヌはひたすらこなす。
エレーヌはふと、空を見上げる。
澄み渡る空の、高い高い所に、筋雲がいくらかかかっている。秋晴れの空だ。
ままならぬ事もあるけれど、平和な日々。エレーヌはそれに、感謝と祈りを捧げた。
トマとブルーノ編、終わり……




