見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十三話
雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から、時折上弦の月が覗く。
エイル河の畔に面した緑地と、それに沿って走る道。アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵の屋敷はその並びにある。ストーンハート家のような田園のシャトーとはまた違う趣の邸宅で、中世の昔に河岸に作られた砦をそのまま近代邸宅に改装した、こちらも由緒と因縁のある古い建物である。
モダンなアンドレイ男爵はこの古く使いづらい邸宅を嫌い、以前は金融通りの高級集合住宅に住んで居た。しかし父の死により早くにこの屋敷を継いでからは、こちらに住むようになったという。二年ほど前の事だ。
古くからの貴族の生活というものは、不自由な面も多く、アンドレイはそうした事を嫌っているという。例えば、アンドレイは専属の料理人などは置かない。執事にも格式は求めず最低限の人数しか置かない。
昔の貴族が多くの使用人を養ったのは有事に備える為で、国民皆兵制の現代に置いては必要の無いものだというのが、アンドレイの考えだという。
アンドレイは別段倹約家という訳では無い。そうしてカットした人件費や維持費を遊興や外遊の費用に充てるのである。食事も高級な店でするし、遊びには金は惜しまない。
そのあたりの考え方は、父親以上に保守的で、古い貴族の暮らしを愛し維持しようとするエレーヌとは相容れない物なのかもしれない。明かりの少ないアンドレイ邸を見て、サリエルは思った。
今は暗いからよく見えないものの、屋敷の周りも、エドモンやトマが整えたストーンハート家の庭と、ただの河岸緑地であるアンドレイ邸のそれでは、雲泥の差があるだろう。
屋敷の正門の警備はストーンハート家より厳重と言えた。そこには歩哨小屋があり、武装した陸軍の兵士が二人駐在している。
サリエルとトマは普通に河畔沿いの道を歩いていた。この道自体は近在の者は勿論、カトラスブルグをただ通過する馬車も使う一般的な道であり、通行人も珍しくない。道の並びにも他の邸宅や倉庫などもある。
トマは辺りをさほど伺うでもなく、ふと道を外れ河岸側へ降る薮の中の道へと降りて行く。サリエルも続く。気に留める者は誰も居ない。
河岸へ下る道のさらに途中から、トマは緑地の雑木林の中へ続く、草の切れ間へと入って行く。庭師でなければ気づかないような道だ。
「先代の頃は、薮を整えるくらいはして居たらしい……この有様は酷いと思うんだけどな……」
トマは庭師としての感想を漏らす。明かりは傾いた上弦の月のみだ。風が程よく吹き茂みを揺らす……古い屋敷に侵入するにはうってつけの夜である。
やがて小道は板塀に突き当たる……さすがに建屋までは近づかせて貰えないか。塀の高さは二メートルほどだが、その上には鉄条網が巻かれている……安上がりで厄介な兵器、これも最新の発明品の一つだ。
「扉があるんだけど、南京錠が掛かっているんだ」
「拝見致しますわ……雨ざらしでもう錆びてしまって居りますわね」
サリエルはその鋳鉄製の南京錠を軽々と捻り切る。
「扉が開いていたんだから仕方ないね」
「不用心ですわね」
二人は戸口を抜ける。塀の内側は殺風景な斜面と石垣を、伸び放題の草が覆って居た。石垣の上には煉瓦造りの男爵屋敷がある。二人はまず屋敷の壁際に移動する。
「今日のところは……入り口を見つけるだけにしようか」
「心得ましたわ」
トマを先導に二人は石垣の周りを少しずつ登りながら、壁に張り付き、屋敷の外周を時計回りに歩いて行く。
そして次の角を曲がると、石垣の一部が奥まって居て、煉瓦造りの屋敷の下に入り込めるようになっているのが見えた。
「庭師の勝手口みたいな場所かな……ライターを借りていいかい」
「ええ、どうぞ」
トマはサリエルからライターを借り、暗がりを照らしてみる……思ったよりかなり広い。作業場のような場所だ……トマの推測通り、かつては庭師が使っていた場所なのだろう。様々な道具や材木が手入れもされず放置されている。
「屋敷への入り口はないよな、さすがに……」
「……美しくありませんわね、この景色は」
サリエルは呟く。エドモンに手入れされた用具小屋は材料が整然と並び、道具は磨き上げられて居ていつでも使用されるのを待っている、ある種の美意識さえ感じる場所だ……そうした美しさは、ここには全く無い。
さて、この作業場の奥には片開きの扉があった。長い間使われていないような雰囲気の扉で、施錠もされていないように見える。
「不用心にも程があるよな……」
トマは扉に触れようとするが。
「お待ちになって」
サリエルは近くで見つけた油差しを、扉の蝶番の所に傾ける。
トマはゆっくりと扉を引く……施錠されていなかった扉は、軋みもせず開く。
しかし扉の向こうにはすぐに古い家具が積み上げられていた。椅子やテーブル。ベッドも見える……かなりの数の積み上げられた古い家具に、この庭師用の勝手口は封鎖されていたのだ。
「これは……入れないな」
「入れますわ、その気があれば」
「……そうだな。よし、やろう」
トマとサリエルは協力し、勝手口を塞ぐ家具を一つ一つ、慎重に動かして行く。
明かりはどうにか見つけた燃え残りのろうそくが一つだけで、辺りは極めて暗い。
物音を立てないよう用心しながら、二人は椅子やテーブル、ソファを動かして行く。
家具はどれも、こんな風に粗末に扱われるべき代物には見えなかった。ストーンハート家の椅子やテーブルは百年を超えて使われている物も多く、ベルベットやレザーも古びたら張り替え、塗装も剥がれれば塗り直す。しかしこの屋敷ではただ捨てるのだろう。
こんな作業をしていても、屋敷の地下と思われるこの辺りには、誰も来る様子は無かった。かなり人の少ない家なのだろう。
ローゼンバーク家とストーンハート家には一つだけ共通点がある。主人がほぼ一人住まいな事だ。アンドレイの父は既になく母はやはり実家暮らしで、兄弟姉妹は居ない。
しかしストーンハート家にはたくさんの使用人が居て、勝手口も遅くまで人が通るし、明かりも一晩中点いている。
やがて、古い家具の間に、二人が通れるぐらいの隙間が出来た。
「この先は侵入犯だな。君はやめておけよ」
「ふふ、私達もう侵入犯ですわ」
トマは溜息をつき、苦笑を漏らす。
「まあ、君が居なければ今日ここまで来れる事は無かったな……本当はもう少し日数を掛けて慎重にやるつもりだったけど……」
「今日は都合も宜しいですのよ。男爵はバルタザールの店で人と会うので早くても午後九時までは戻らないはずですわ」
「驚いたな、どうやってそこまで」
「……オルフェウスは今でもお嬢様に感謝してますの」
古い煉瓦造りの内装にクロスやタイルを貼り、近代的に改装されたローゼンバーク邸はそれなりに趣のある造りをしていた。
ただ、元の役割が砦という事もあって、窓が小さくて少ない。長廊下の窓は元々矢を射たり石を落としたする為の窓だし、城主の間の構造も変わっている……低い塔のような城主の間は直径三十メートル程の円構造で、中心が直径二十メートル程の城主部屋になっており、その周りを広くゆったりとした階段が周っている。
そして城主部屋の入り口は三階らしい。
トマとサリエルはここに来るまで、一度しか使用人とすれ違わなかった。それは物陰に隠れてやり過ごしたのだが、お仕着せどころかネクタイも着けていないその男は、トマ達にはどんな役割の使用人なのかも解らなかった。
「さすがに鍵が掛かっているな」
トマは城主部屋の扉を試し、呟く。
「ですが、この扉はいけませんわね」
扉は近代的な物に取り替えられていたが、蝶番の露出した、あまり上等ではない物だった。色は明るくモダンだが、本来こんな場所に取り付けるべき扉ではないようだ。
サリエルはドライバーを取り出し、蝶番の方のネジを外して行く……少し時間は掛かったが、扉は外れた。
「急ごう!」
「何を探したら宜しいでしょう?」
「日記とか手紙かな……何か手がかりがあるといいんだけど」
「ここまで来たのですものね……」
トマとサリエルは、途中で拝借した小さなランプにそれぞれ火を灯す。
二人はとうとう城主部屋に侵入した。三階は立派な応接になっていた。円形の部屋には暖炉や調度品もあり、これまでの場所に比べれば、由緒ある男爵家の当主の住居に相応しい威容があると言えた。
城主部屋の内側には下りの階段もあった。やはり壁に沿ってゆっくりと曲がりながら降りて行く階段だ。
「まさかご本人がいらっしゃらないでしょうね……」
サリエルは呟きながらそちらに降りて行く。トマも続く。
二階は城主の居住スペースらしい。しかし……これではアンドレイ男爵がこの館を嫌ったのも仕方無い。構造上、二階の部屋には窓が全く無いのだ。
一応通風孔は方々にあるようだが、こんな息苦しい場所に寝泊り出来るものだろうか。外が明るいか暗いかもよく解るまいに……先程の三階はまだ天窓があったのだが。
それでも二階は二つの区画に分けられていた……書斎と、寝室か。
「書斎だ!ここを徹底的に調べよう」
「急がないと……少し時間が掛かってしまいましたわ」
「サリエル、一応一階を見て来てくれないか」
「心得ました」
サリエルは一度書斎を出る。そして寝室も覗いてみるが……ベッドメイクが随分甘いという事の他に、気になる所は無い。男爵は他人が寝室に入るのを嫌い、自分でしているのかもしれない。
それから、一階への階段を下りて行くと、今度は扉で終わっている……上の扉は新しかったのに、この扉は古い……砦時代の戸をそのまま使っているようだ。鍵もかかっている。
けれども、このくらいの鍵ならどうにかなる気がしたサリエルは、ポケットからヘアピンを取り出し、以前エレーヌがやってみせてくれたように、ガチャガチャと鍵穴を回してみる……少しずつ、何かが動く音がして……鍵は外れた。
サリエルは扉を開け、中を覗く……完全に真っ暗だ。
足元を照らしながら、サリエルは一階へと降りて行く。
慎重に階段を降りきったサリエルは、ランプを手に顔を上げる。
「ひッ……!?」
危うくサリエルは悲鳴を上げかけた。そこに居るはずの無い人物。このローゼンバーク屋敷の奥深く、城主部屋のさらに底、こんな暗闇の中に絶対居るはずの無い人物が、そこに居た。




