見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十二話
「サリエルも見つからないし、長屋に戻ったはずのトマも居ないそうですの……どうしてしまったのでしょう、若い人ばかり」
午後七時過ぎの伯爵屋敷の玄関ホールで、ヘルダはディミトリを呼び止めて話していた。
「ブルーノは相変わらず見つかりませんし……困りましたね」
気苦労の絶えない様子で、ディミトリは自分の胃のあたりを手で押さえる。そしてふと鏡を見る……元々少なくなっていた頭髪が、また減ったような気がする。
エレーヌは大きな方のダイニングに居た。ここは本来は来客があった時の正餐に使うダイニングなので、オーギュストやクリスティーナが居る時は使わせて貰えないのだが、エレーヌは自分が主人の時は構わずここを使う。
そのエレーヌの前に、オムレツが運ばれて来る。
オムレツが出て来るという事は、サリエルはきちんとジェフロワと話したという事である。しかしそのサリエルが居ない。
エレーヌは普段、晩餐の時はサリエルを側に立たせておく。
朝はエレーヌの気まぐれのままに食べ、昼は学院で友人のように食べる二人だが、夜はいつも厳然と主従の区別をつける。昨日の浮かれたエレーヌでさえ、おやつのビスケットまでは仲良く一緒に食べたが、夕食は別だった。
それは二人にとっては規則以上の何かであり、サリエルの側からは勿論、エレーヌの側からでも安易に踏み破ってはいけない典範だった。
そんな夕食の風景の中に、いつも居るべき、サリエルが居ない。
「如何ですか……弟子の味に敵う物となりましたでしょうか」
サリエルが居ないからという訳ではあるまいが、伯爵屋敷の料理長ジェフロワはエレーヌに呼ばれる前からダイニングに現れ、控えていた。
弟子というのは昔、エレーヌが我侭を言ってクビにした若い料理人、オルフェウスの事である。彼は若くして、卵料理の天才的名手だった。
オルフェウスには本当に悪い事をしたと、エレーヌは思っていた。
全部が全部自分の為にやった事でもない。若くして才能を開花させたオルフェウスを、伯爵屋敷に閉じ込めておくのは勿体ないと思ったのも本当だ。
今は宮廷が料理人の最高のゴールなどという時代ではない。料理人も自分の主人の名前を誇るのではなく、自分自身の富と名声を掴む事が出来る時代だ。
結果的にオルフェウスはバルタザールの店のシェフへとキャリアアップを果たし、給与も増え名声も得た。その事は良かったと思う。
一方その件により、ローゼンバーク家の誰かが、伯爵令嬢エレーヌは自分の家の料理人をいじめて辞めさせるような人物である事を知った。
それ以降、ローゼンバーク家ではエレーヌをアンドレイ男爵の花嫁候補から外したようだったが……それはエレーヌの知った事ではない。
「謙遜ですわね、ジェフロワ……貴方の作るシチューの、この味わいはオルフェウスにもまだ出せないと思いますわ」
それを聞いたジェフロワは喜ぶのではなく……片手で目を覆った。
「申し訳ありません……オルフェウスのようなオムレツを作れる自信がありませんでした」
エレーヌもジェフロワも苦笑いしていた。
エレーヌが食べたかったのは純粋なプレーンオムレツだったのだが、オルフェウス並みのプレーンオムレツを作る自信の無いジェフロワは、オムレツの中に得意のビーフシチューを仕込んで来たのだ。
「これはこれで、本当に美味しいですのよ」
その頃。トマはまた屋敷を出て、鍛冶屋通りの辺りを歩いていた。
こちらは勤務時間外であるから別段後ろめたい事をしている訳ではない。それでもトマは注意深く辺りを見回しながら歩いていた。
トマの精神は高揚の中にあった。今日は普段ほとんど話す事も出来ない伯爵令嬢とたくさん話す事が出来た。しかもどうやら自分は彼女の信任を得たらしい。
そして……今まで凶暴で気まぐれな恐ろしい女主人と思っていたが、近くで見るエレーヌの何と淑やかで美しい事か。あれが時々鉄箒を振りかざしてサリエルを追い掛け回しているのと同一人物とは信じ難い。
頂戴したコニャックを早速開けて今日の余韻に浸っても良かったのだが……今、お嬢様は何かのトラブルに巻き込まれていて、助けを必要としている可能性がある。
トマは思った。自分の優れている所は余計な事を言ったり聞いたりしない所なのだ。自分はエレーヌに聞かれてもすぐには何も話さなかった。そしてエレーヌに何も聞かなかった。自分のそういう所も、女主人は気に入ってくれたに違いない。
トマは交差点の近くで、単に一服する為、紙巻たばこのケースを取り出し、巻紙でたばこ葉を巻いて舌で止める。
それからマッチを取り出し火をつけようとするが……あいにくマッチ箱が空になっている。
諦めてそれをポケットに戻そうとした所……隣に立っていた人物が、そっと手を差し伸べて来た。その手の内には、最新の紳士の持ち物と言える、火打石式ライターが握られていた。
「どうも……」
トマは普通に礼を言い、その紳士が点けてくれた火で紙巻きたばこに火をつける。
トマがふと見上げたその紳士は……ついぞ見た事も無いような黒髪の美青年だったが……どこかで会った事があるような気がした。
探偵としては素人と言えるトマだが、人相の見方には心得があった。
この耽美な切れ長の目が化粧による目張りで、チークをシャープに入れて、前髪を上げ後ろ髪はバッサリ切り落としたものだとしたら……
「サ……サリエル!?」
「お声が高うございますわ」
サリエルの身長は170センチメートル、だがかなり踵の高い靴を履いているようで、今は身長177センチメートルのトマと殆ど変らない。スラックスのボトムが広いので見た目には解らない。
「その……恰好は……」
その服装自体は少し前にも見た。黒のズボンに黒のインバネスコート……しかし今日はヒゲメガネや不格好な山高帽などは無い。
「偵察に行くならお供致しますわ。色々心得もあるし何かの役には立てると思いますの。私、このままでは引き下がれませんのよ」
最初の一声だけサリエルだった青年は、低く深みのある美声で言った。
これがあの先日のふざけたヒゲメガネと、先程屋敷で萎れていた側仕えのメイドと同一人物なのだろうか?まるでそうは見えない。
あの女主人といい、その側仕えのメイドといい、不思議な女達だと、トマは思った。先日のヒゲメガネだったらどうかとは思うが、今のサリエルとならただの夜の散歩としても楽しめそうだ。
「どうかなさいまして?」
「いや……ごめん、少しだけぼんやりしてた」
トマはサリエルの問いかけで目を覚まし、苦笑する。




