見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十一話
普段のエレーヌなら、サリエルにそう簡単にそんな話をしたりはしなかっただろう。けれども、今のエレーヌは密かにサリエルに負い目を感じていた。自分が浮かれていたせいで、サリエルをこんなに憔悴させてしまったのだ。
エレーヌの言葉への驚きから、幽霊のようだったサリエルの表情にいくらか生気が戻る。
「お嬢様……?」
「別段素敵なお話ではなくてよ。向こうは向こうで色々な家との関わりがあって、そういうグループがストーンハート家を取り込みたいと考えているだけなのよ」
エレーヌはまたサリエルの方を向き、真顔で頷く。
「以前にもあったのよ。そのせいで私も貴女もオルフェウスのオムレツを失いましたのよ?御存知無いでしょうけど」
エレーヌはそう言ってサリエルにまた背を向ける。
「あの……それはどのような……」
サリエルが軽く食いついて来ると、エレーヌは密かに口元を歪めて笑う。
しかしサリエルはそこで食い渋ってしまう。
「いえ……失礼致しました……」
「あまり興味が無かったかしら?」
エレーヌは眉間に皺を寄せ、そう呟いた。次の瞬間。
「お待ち下さいお嬢様!それでは……それではまさか!!」
サリエルが、エレーヌの腕を強く掴んだ。
エレーヌは少し驚いて振り向く。そこには、すっかり生気を取り戻した、むしろ普段より力強く、やや顔を紅潮させた、力強さを漲らせたサリエルの顔があった。
「リシャールさん……大尉が急に異動させられた事は、ローゼンバーク家がお嬢様を監視している事と関係があるのですか!?」
エレーヌはサリエルの手を振り払おうとするが、その手は離れない。
「何をおっしゃいますの、貴女は……」
「アンドレイ様はカトラスブルグ師団の名誉顧問で陸軍の参謀ですわ!私、陸軍の伝習所で、他の幕僚の方と一緒にいらっしゃるのを何度もお見かけしています!あの方なら大尉を海外派遣させる事も出来るはず!大尉は、お嬢様とお付き合いしようとしていたから、お嬢様を監視していたアンドレイ様に謀られ、海外派遣されるのですか!?」
エレーヌは後づさりながら腕を振り解こうとするが、サリエルの手は離れない。
「サリエル、証拠は何も無いのよ、何も」
「ですが!不自然です!そもそも何の権利があってアンドレイ様はお嬢様を監視しているのですか!」
「何の権利も無いわよ、アンドレイが私を監視しているという証拠も無いの。トマも言っていたでしょう?ローゼンバーク家に出入りしている人間が間接的に監視に関わっているかもしれない、それだけの話なのよ」
ついさっきまで、憔悴するばかりで幽霊みたいな顔をしていたサリエルが、激昂している。
確かに、エレーヌはサリエルに少しは元気を取り戻してもらいたかった。だから少しだけ本当の事を話した。けれどもそれでサリエルは全て気づいてしまった。
サリエルの目尻には涙が浮かんでいた。しかし今度の涙は弱さの涙ではなかった。
「お嬢様、本当の事をおっしゃって下さい!お嬢様はどう思われるのです、アンドレイ様はお嬢様の事をどう思っているのですか!?」
「そんなの、私に解る訳がありませんわ……サリエル。よく聞いて」
エレーヌは空いている手でサリエルの手をそっと掴み、自分の腕から放す。
「どうしようもないのよ。大尉は海外派遣の辞令を受けたら、それを断るような方ではないでしょう?大尉は単に優秀な軍人として海外派遣任務を受けたのであり、ローゼンバーク家がそこに介入したという証拠は何一つ無いの。そして……私がどんな感情を抱こうと、ストーンハート家はローゼンバーク家と、今仲違いをする訳には行かないのよ」
エレーヌから手を離したサリエルは少しだけ俯いていたが、すぐに顔を上げ、エレーヌの目を真っ直ぐに見つめる。
二人の視線が鋭く絡む。
「な、何よ」
「差し出口を申し上げてしまいました。お許し下さい」
サリエルはそう言って、丁寧に頭を下げた……そして、もう一度前を向いたサリエルの視線と、ただ前を向いていたエレーヌの視線が、今度は柔らかく絡む。
「私、御夕食の様子を見て参りますわ。何かお託けはございますか?」
サリエルは、ごく穏やかにそう言った。
「そうね……私、オルフェウスのオムレツを思い出しましたわ……ジェフロワに出来るかしらね……」
「……そのまま、お伝えして参りますわ」
「ふふ。宜しくね」
サリエルは何事も無かったかのように、オーギュストのリビングを離れて行く。
エレーヌは踵を返し、オーギュストのリビングの奥にある、書斎の方に向かう。
廊下に出たサリエルは、一階へと降り……厨房へ向かう前に、玄関ホール横にある、鏡の前へと向かう。
そして鏡の前に立つと、まずハンカチを、次に櫛を取り出し、身支度を整え直す。取り乱したり落ち込んだりした後だから、あちこち綻んでいた。
自分はエレーヌの側仕えのメイドだ。自分の恥は主人の恥になってしまう。
色々と思う所はある。正直決意した事もある。
そして心を動かされた部分もある。他ならぬ、エレーヌの言葉に、態度に。
エレーヌは一時間程そのままオーギュストの書斎に篭っていたが、やがて廊下に現れる。
小腹が空いたので何か頼もうと思ったのに、サリエルが戻って来ない。伯爵令嬢に自分でおやつを探せというのか。元気が出たら出たでどこへ行ったやら。
まあ自分の部屋の方へ行けば何かあるだろう……そう思いつつ廊下に出てみると。案の定、エレーヌの部屋の前に配膳用のワゴンが置いてあり、銀の皿と取っ手付きのクロッシュ……銀色の大きな蓋が載っている。
エレーヌはそこに歩いて行き、クロッシュを取ろうと手を伸ばしたが……その手は一旦止まる。
これは、また何か……チョコレート紫陽花やミルフィーユ文庫のような物ではないだろうか。
きちんと食べられる物ならいいが。そう思いながら、エレーヌはクロッシュを持ち上げた。
中にあったのは……ブリオッシュだった。デフォルメされた人の顔を模したブリオッシュ……エレーヌの好きな絵本、『小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男』に出て来る、小豆餡入りブリオッシュの顔を持つ男の顔だ。
よく出来ている……見た目の再現度はかなり高い。
エレーヌはブリオッシュを一つ取り、クロッシュを置く。そしてブリオッシュの顔を額の所から割ってみる。
「……違うのよ……」
エレーヌは呟き、溜息をつく。中から出て来たのは餡ではなくカリーのようだ。作った人間はこれを面白いと思ったのだろうか?
それに、カリーは他に居るのだ。絵本の中の物語で出て来るのだ。小豆餡入りブリオッシュ男の友人に、カリー入り揚げパン男というのが別に出て来るのだ。中にカリーが入っているならば、外見もその男を模して欲しい。それが間違っているのが面白いか?面白くない。
とは言え、そういう不満は今のエレーヌの腹具合とは無関係のものだった。麗しき伯爵令嬢も十七歳。食べ盛りである。それが小腹の空いた所に、香ばしいスパイスの香りを嗅がされてしまってはたまらない。
伯爵令嬢は今だけ休み……そう心に決め、辺りに人目が無い事を確認し。麗しき令嬢にはあるまじき事ではあるが、エレーヌは廊下で立ったままブリオッシュにかぶりつく。
エレーヌの顔色が変わる。
――これは……小豆餡に見せたカリーと見せた小豆餡!?
見た目と香りはカリーなのに味は小豆餡の甘さとまろやかさ、ジャガイモに見えたそれは糯米を練って作られた菓子、角切り肉に見えた物も切れ目を入れて細工した白桃……つまりこれはフルーツ餡入りブリオッシュwithカリーの香り……
エレーヌの眉間に皺が寄る。面倒臭い。色々あって気持ちが忙しい時に何故こんな物で足と気持ちを引っ張るのか。
これもブルーノの仕業だとしたら、ブルーノは屋敷の中を自由に駆け回っているのではないか。何故見つからないというのか。
何となく食欲の失せた伯爵令嬢はブリオッシュを皿に戻しクロッシュを被せる。
甘いデザートは人の腹を満たすだけではなく、気持ちを満たす物だ。どんな問題を抱えた人をも、食べている間だけはそれを忘れ、幸せな気持ちにしてくれる。そういうものではないのか。
「どうしてこうなったのかしら」
エレーヌは呟き、腕組みをして、伏せたクロッシュを見つめる。




