十月のエリーゼ 第九話
風は強く吹き続け、空は黒雲に覆われていたが、雨は少ししか降らない。そんな天気が午後まで続いた。
伯爵令嬢エレーヌとその下僕サリエルは、迎えの馬車に乗り込み学院を去る。
「休息は終わりですわね。あの女が来る時は本当に学院だけがオアシスですわ」
エレーヌは呟き、一度格好を崩した後で、背筋を伸ばす。
遠くで雷鳴が鳴った。
「お嬢様、雨が降り出しそうですわ」
「降りそうで降らないのはイライラ致しますわね」
エレーヌは万年筆と手帳を取り出し、何かを書こうとして…手を止め、目を閉じて呟く。
「十月の遠雷…大粒の雨が麦の穂を斬り、風が白樺を引き裂く…」
馬車の窓の外が真っ白に輝いて飛び、キャビンの中まで、真っ白と黒のモノトーンに染め上げる。そして全く間を置かず、頭上で何かが大爆発したような轟音が轟いた。
「…!」
あまりの事に、サリエルは悲鳴も上げられなかった。エレーヌは全く動じず手帳に万年筆を走らせていた。
「す…すぐ近くに落ちました」
御者が声を掛けて来た。遠くで雷が鳴っていると思った途端、たちまちすぐ近くに落ちたらしい。馬車の周りの人々も騒然としている。
その喧騒の中で、エレーヌは何かを聞き分けた。
「止めて」
「は…はい、しかし…」
落雷を合図にしたかのように。滝のような大粒の激しい雨が降り出していた。エレーヌは馬車のシートの下にしまってある外套を着てフードも被り、外に出た。
「お嬢様、危のうございます…」
「貴女はそこに居なさい」
「いえ、私も…」
「命令よ」
エレーヌはサリエルにそう言って馬車を降り、扉を閉めた。
それから馬車を数歩離れ、辺りを見回す。
大きなの四辻の辺りに、小さな人だかりが出来ていた。
エレーヌはそこに歩いて行く。
「フランツ!おい、フランツ!」
初老の男がひざまずき、倒れている髭面の大男を揺さぶっていた。周りにも数人の男が、女が、心配そうに見下ろしていた。
「今の落雷で倒れましたの?」
エレーヌが野次馬の婦人の一人に声を掛ける。
「ええ、多分…今しがたまで元気そうに通りを渡っていたもの…」
「フランツ…誰か!誰か医者を!」
エレーヌは大男の横に膝をつき、脈や呼吸を調べる。そして一度辺りを見回す…誰も心得が無いのか、やろうとする者が居ないのか、それは解らない。
伯爵令嬢は大男の顎を上げさせ気道を確保すると、その鼻をつまみ、迷わずその唇を自らの唇で塞ぎ、深く息を送る。
「…」
男の胸がいくらか上がり、空気が肺に入る。エレーヌはそれを横目で見て、一度口を離し、息が自然に排出されるのを見つめる。それからもう一度、唇を塞ぎ、息を吹き込む。
そしてまた息が排出されるのを確認してから…今度は大男の厚い胸板に両手を当て、圧迫と弛緩を繰り返す。
「グエッ…ブホッ…」
圧迫を三十回程繰り返した所で…大男が呻いた。
「今の落雷の負傷者か!」
誰かがそう叫びながら走って来る。その後ろからも何人か。それは陸軍カトラスブルグ師団のリシャール・モンティエ大尉とその部下だった。彼らはたまたま、アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵に呼び出され、近くを通りかかった所だった。
「あら、お久しぶりですわね。女学生の警備はもう飽きたのかと思いましたわ」
エレーヌは立ち上がり、口元をハンカチで拭いながらそう言った。
「エレーヌ…!」
「呼び捨ては失礼ですわね。こちらの殿方が落雷で負傷されたようですわ。後はお任せして宜しいかしら」
エレーヌは返事も待たず身を翻し、馬車へと戻って行く。
「…あの子が…助けてくれたんだ、フランツを…」
大男の横に屈んでただ名前を呼ぶだけだった男が、モンティエを見上げそう言った。滝のような雨に打たれているので、男が涙を流しているかどうかは解らない。
「俺…俺ぁ…一体…」
髭面の大男は、まだ立ち上がれない様子で、首だけを微かに動かし、辺りを見回していた。
モンティエは。エレーヌの背中から目を離せずに居た。彼女が馬車に乗り、その扉が閉まるまで。
サリエルはエレーヌの命令通り馬車の中で待っていた。彼女は窓という窓に頬を押し付け、何とかエレーヌの様子を見ようとしていたが、どの窓からもエレーヌが外で何をしているのかは見えなかった。
「何面白い事してるのよ」
「あっ…お嬢様!何があったのですか?」
サリエルはエレーヌが外套を脱ぐのを手伝いながら尋ねる。
「ただの野次馬ですわ。お出しなさい」
エレーヌは御者に告げる。
「はい、お嬢様」
外套を着込んだ御者は機嫌よく答えた。御者は一部始終を見ていた。
馬車は今日も鍛冶屋通りで一旦止まった。
「サリエル」
「只今」
今度は先ほどの外套をサリエルが羽織り、雨の中へ飛び出して行く。
エレーヌは腕組みをして目を閉じ、待っていた。
「お…お嬢様!」
一分ほどして。サリエルは慌てた様子で戻って来た。
「見たままを報告するのよ」
「屋敷の掲揚台には国旗、掲揚台の下にはカロネード砲、屋敷の向かいの空き地には軍馬が二十頭あまり…お母様が…クリスティーナ様がお越しですわ!」
「見た事だけ言えと言ったでしょう、サリエル。貴女あの女を見たの?」
「も、申し訳ありませんお嬢様…私が見たのは…揃いの黒のサーコートを着た公爵家私兵、青薔薇騎士団の歩哨が…屋敷の正門とロータリーに各二名…」
「馬車は!?」
「…見ていません!」
「…あの女は六頭立ての馬車で来るのよ。それが見えない以上そこに居る訳が…」
エレーヌがそこまで話した時。馬車の窓の外を、カトラスブルグでは珍しい、蒸気自動車が通過していった。
たちまち前方の窓に張り付いた二人が見たのは、金の模様のある黒塗りのボディと、薔薇の紋章のついた蒸気自動車が、屋敷の方へと走り去って行く所だった。




