十月のエリーゼ 第八話
一人にして欲しい。そう言われる事はサリエルも十分予想していた。そしてそれは決して悪い傾向ではないと考えていた。
きっと、お嬢様は動揺なさってらっしゃるのだ。この春の訪れは少し遅いくらいではあるけれど、例えば…今まで雪に覆われた景色しか見た事の無いヒグマの仔が、急に春の野原に出会ったら…動揺し慌てて、雪の野原に戻ろうとするかもしれない。きっとそういう感じなのだ、今のお嬢様は。サリエルはそう考えた。
しかし、これで色々計画を変更しなくてはならなくなった。
サリエルは自室に戻る。
だいぶ熱の下がったポーラは起き上がって本を読んでいた。
「具合はどう?」
「サリエルさん、私、もう本当に平気です、御仕事に戻ってはだめなんですか?」
「ごめんなさいね…今色々とややこしい事になってるのよ」
サリエルは少し前までは、ポーラを使って「誕生日は地味にやる派」の切り崩しをしようと企んでいたのだが…色々と事情が変わってしまった。
この件に関してのポーラは…悪い言い方をすれば、用済みである。クリスティーナ様の件もあるし、しばらく大人しくしていて欲しい。
ジョゼはどうしよう。もう巻き込んでしまったのだが…今年のお嬢様にあのパレードは必要無い。こちらも用済みだ。どうやって切り離そうか。
後はお嬢様をどうにか誘導して…とにかくマナドゥ先生とのデートに漕ぎつけさせてしまいたい。一度そういう事をしてみたらいいのだ。お嬢様も気が変わるかもしれない。
もしかすると別人のようにおしとやかになるかも?平和で温かな家庭を築いちゃうかも?サリエルは妄想に胸を膨らませていた。
夜。エレーヌは伯爵家の家族用の、狭い方のダイニングに現れた。
側には執事長としてディミトリが、専属メイドとしてサリエルが控えている。
そこにヘルダが大きなトレイに乗せられた料理を運んで来る。
普段のエレーヌは、面倒な時は部屋に運ばせてパジャマ姿で食べる事もある。面倒でない時は一階に降りて来て、会食用の広いダイニングで食べる。そこの方が調理室と隣接しているのでジェフロワを始めとするコック達に文句を言いやすい。
ヘルダも普段は料理を手押しカートに乗せて来るし、二階の時は岡持ちに入れて来る。ディミトリやサリエルは控えるのではなく、一緒に食べろと言われる事も多い。別に気遣いからではない。エレーヌも自分が一人で皆の視線を浴びながら食べるのが嫌なのだ。
今まさにエレーヌは、皆の視線を浴びながら一人で夕食を食べている。ディミトリもサリエルも、出来れば目を逸らして差し上げたいとは思っていたが…常に本番を想定した動きで臨むようにとの、エレーヌの厳命である。そうもいかない。
エレーヌは形通り調理室に立ち寄り、ジェフロワに一言礼を申し上げてから、自室に戻った。その日は、それ以上何も起こらなかった…表向きは。
ポーラを除く伯爵屋敷のメイドの十人は、屋敷の中二階の物置部屋に集められていた。
「サリエル、貴女がどうしてもというから一応集まりましたけど…何か余程の訳があるのでしょうね?戒厳令が敷かれている時に勝手に徒党を組んで、お嬢様の御耳に入ったら営倉行きではないかしら」
ヘルダは眉をしかめてそう言った。
「皆が知っておくべき事がございますのよ」
サリエルは自信ありげに腕組みをして目を伏せる。
「…お嬢様は今…誕生日デートに誘われておりますの!」
「え」「ええ」
「お相手は…あのマナドゥ先生ですわ!」
「えええ」「ええええ」「えええええーっ!?」
「皆様!お声が高うございます!」ヘルダが一際高い声で嗜める。
「で、ですが!」「そうですわまさか!」「そんな事が!」「ありえますの!?」
サリエルは何故か誇らしげに胸を張り、皆を見回した。
「何故皆様そのように驚かれますの?当然の事ではなくて?あの美しく気高いエレーヌお嬢様が、殿方から想いを寄せられるのは当たり前ですわ。お嬢様は私共と違って世間の目に触れる機会が少のうございますから、今まで無かっただけですわ。それが深窓の令嬢というものですもの」
ヘルダは少し溜息をついてから、頷く。
「そうね…サリエルの言う通りですわ…少なくとも私達はそのように考えるべきでしょうね…お嬢様に仕える者として」
他のメイドも口々に言う。
「だけどまさか…マナドゥ先生が…エレーヌお嬢様を…」
「人は見掛けによりませんわね…マナドゥ先生がそんな…」
「でも…マナドゥ先生が若旦那様になって屋敷に住んで下さるようになったら…」
「あらやだ!気が早過ぎですわ!でもいいわねぇ、そんな事になれば」
メイド達は騒ぐ。うっとりと目を瞑る者も居る。
サリエルはまるで自分に手柄があったかのように鼻を高く掲げる。
「さて…私達も難しい舵取りが必要になる…そうなのね?サリエル」
「ええ…お嬢様は揺れてらっしゃいますの。普段の御自分と新しい御自分の間で…今こそお嬢様には…」
サリエルはその間の言葉を飲み込む。
「…殻を破っていただかないと…いけませんわ!」
明けて…十月四日。本来の決戦は三日後であったか、今、屋敷を包む緊張感は別の物にとって代わられていた。
伯爵屋敷の掲揚台に、オレンジ色の吹き流しが上がって行く。屋敷の者に戒厳令が続いている事を知らせる符牒である。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「行って参ります、皆様」
今日も演習通りの動きでエレーヌとサリエルは馬車に乗り組む。扉を開閉するのは執事長のディミトリであり、淑女達は自分でそれを開閉したりしない。
エレーヌは馬車が走り出しても、暫くその窓からメイド達を見つめていた。
「士気が乱れているわ」
そして、短くそう言った。サリエルはぴくりと震える。
「貴女何か御存知無いかしら?メイドの統制が乱れだしましたわ。こんなに早く」
「申し訳ありませんお嬢様、戻りましたら私からも注意致しますわ」
エレーヌは特にそれ以上の事は言わず、席に戻った。
「あの…お嬢様…マナドゥ先生のお誘いの事ですが」
「貴女からお断りしておいて」
サリエルは出鼻を挫かれた。しかし、この件についてはサリエルは簡単に引き下がるつもりは無かった。
お嬢様はマナドゥに想いを寄せていたわけではない。そして向こうから想いを寄せられていた事を知って狼狽している。けれども狼狽しているという事はまんざら悪くも思っていない。とは言えこの慣れない感情に恐怖感を抱き尻込みしている…サリエルはそう考えている。
その上で。今エレーヌから言われた事に、どう答えを返すべきか?
サリエルは、策士の顔で答えた。
「承知致しました。きっぱりとお断りしておきますわ」
馬車はブドウ畑の間を通り抜け、長屋通りに達する。
「嫌に素直ね?」
「クリスティーナ様がいついらっしゃるか解らない時に、お嬢様の命令に異を唱えるのは、忠実な臣下のする事ではありませんわ」
サリエルは策士顔で続ける。
二人は無言のまま。馬車は長屋通りから鍛冶屋通りへと達する。
エレーヌは何も言わず、馬車の窓のカーテンの隙間から外を見つめていた。
サリエルは目を伏せたまま、どこともなく、正面を見ていた。
馬車は鍛冶屋通りから戦勝記念通りへ。そして…教会通りへ。
エレーヌは右後ろの席に、サリエルは左前の席に居た。
サリエルは腕組みをして目を伏せていた。エレーヌは窓の外を見ていた。
馬車が教会通りから、学院に続く登り坂に差し掛かった時。
「貴女は何もしなくて結構…自分でお断りしますわ」
エレーヌが小さな声で言った。
「承知しました」
サリエルはそう答えながら、心の中で密かに勝利を祝った。
学院についた後。悪は急げと、サリエルはエレーヌから離れジョゼの姿を探した…しかし。どこを探しても居ない。どうも、登校していないらしい。
「休みかしら…?仕方ないわ…申し訳ないけれど…お休みならお休みで好都合かもしれないわね…」
今はエレーヌの事しか考えられないサリエルは、そう呟いた。
その時。
――ギャア!ギャア!ガァガァ…バサバサバサ!ギャアギャア、ガアガア…
不意に、庭で数羽のカラスが騒いだ。
「嫌ですわ、朝はあんなに晴れてましたのに」
サリエルは窓から外を見上げる。風が強く吹き、黒い雲が青空を覆い隠そうとしていた。




