十月のエリーゼ 第七話
その日の午後。伯爵令嬢は下校中、鍛冶屋通りで馬車を一度止めさせた。
「サリエル」
「はい!」
エレーヌがそれだけ言うと、サリエルは双眼鏡を手に馬車を降り、斥候に向かう。帰宅前に屋敷の様子を伺わなくてはならない…当分の間。
エレーヌも少し辺りの様子を伺いつつ、一旦馬車を降りる。
「…」
今の所、空が青い…何となくだが、屋敷は今の所平穏なような気がする…
次の瞬間、エレーヌは不意に振り向く。走行する馬車の音を、雑踏の中から聞き分けたのだ…だが、これは違う…この音は一頭立て…公爵家の馬車では在り得ない。
それでも馬車の来る方を注視するエレーヌ。なかなか来ない…今のエレーヌは相当遠くの音まで聞き分けられていたのだ。
やがて街角を曲がって現れたのはマナドゥ医師の馬車だった。エレーヌは何となくそれをぼんやりと見つめていた。マナドゥの方も気づいて、軽く会釈をして来る。
「ちょうど良かった」
エレーヌの目の前まで来ると、マナドゥは馬車を止めた。
「貴女にこれを」
マナドゥはそう言って封筒のような物を渡して来る。
エレーヌは他の事に集中していた為、無表情でそれを受け取った。
「それでは」
マナドゥはそれだけ言って、再びゆっくりと馬車を走らせて行く。
マナドゥと入れ違いに、サリエルが戻って来る。エレーヌは黙って顎で馬車の中を指し示し、自分も乗り込む。
「屋敷はまだ平穏ですわ。勿論公爵家の馬車も見当たりません」
サリエルも馬車に乗り込み、報告する。エレーヌは御者に合図を送り、馬車を再び走らせる。
「いつまで続くかしらね…」
「お嬢様、その封筒は?」
「マナドゥ先生に渡されましたわ。ポーラの件の領収書でしょ」
エレーヌはそれをサリエルに放って渡す。サリエルはそれを後で開ける事にして、懐にしまう。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
馬車が屋敷のロータリーに戻ると、サリエル以外のメイドが全員整列していた。ディミトリも出迎えに来ていて、扉を開ける。
「ありがとうございます皆様」
エレーヌはお辞儀をしながら、馬車を降りて来る。サリエルも続く。
自分用リビングまで戻った伯爵令嬢は、ソファに鞄を投げつけると、自らの身も投げ出す。
「疲れますわ…生きているだけで疲れますわ…これが何日続くのかしら…」
今は良いが、屋敷の皆もいずれ疲弊して行くだろう。皆で程よく手を抜きあって作り上げていた伯爵屋敷の緩い空気が、早くも懐かしくなって来た。
サリエルは割りと今の空気が好きだったが、それは口に出来なかった。
「着替えをお持ち致します」
「昼間からコルセットで締め上げるおつもり?」
「ですが、そうしないと…」
「解っていますわ…」
クロゼットへ向かいながらサリエルは、何気なくマナドゥから渡されたという懐の封筒を取り出して中を見る。
「きゃああああああ!!」
サリエルは悲鳴を上げて駆け戻って来た。その顔に浮かんでいたのは、驚愕と歓喜の表情。
「お嬢様!お嬢様!」
「目の前に居るでしょ。何よ」
「このお手紙!!これはいわゆるデートのお誘い!!…すなわち恋文ですわ!!」
エレーヌは特大の怒筋を浮かべる。
「貴女また私を辱めるおつもり?そんなに自慢したいのかしら?それともとうとう大脳に花でも咲きましたの?」
サリエルは全く引き下がらなかった。
「私にではありません!!お嬢様に!!恋文です!!」
エレーヌは近くにあった乗馬用の鞭を取り、振り上げる。
サリエルは無礼も忘れ、エレーヌの目の前に、その便箋を突きつけた。
エレーヌの手から鞭が落ちた。
エレーヌはまず青ざめて二歩下がる。次に赤くなり…近くにあった花瓶を掴み、放り投げる。
「お嬢様、落ち着いて下さい!」
花瓶は床に落ちる寸前でサリエルにキャッチされた。
エレーヌは次に安楽椅子を抱え上げて投げようとする。サリエルは普段の関係も忘れ、エレーヌに後ろから抱きついた。
「お嬢様!恋文です!お嬢様に想いを寄せる殿方からの…」
エレーヌは安楽椅子を床に戻し、代わりにサリエルに背負い投げをかける。
3mばかり投げ飛ばされたサリエルがどうにか立ち上がって振り向くと、エレーヌは掌で顔を覆いながらリビング中の引き出しという引き出しを開けていた。
サリエルの瞳から涙がぼろぼろと毀れる。それは歓喜の涙だった。お嬢様の。お嬢様の乙女回路が作動している。間もなく十七年目になるという、お嬢様の人生の中で、初めて…乙女回路が作動したのだ。
「お嬢様!普通なんですお嬢様!これは普通です!」
サリエルは今度は扉という扉を開けて周るエレーヌに駆け寄り、無礼も忘れその両手を強く握り締める。
「何がどう普通ですの!一体何が起こりましたの!私どうなってますの!」
エレーヌの瞳は焦点を結んでいなかった。
「最高に美しいお嬢様に思いを寄せる殿方が居るのは普通ですの!気高すぎるお嬢様に遠慮していた殿方が勇気を出しましたの!お嬢様は少しだけ動揺なさってますけれど、誰でも最初はそういうものですわ!」
エレーヌはいきなりサリエルに抱きついた。夢の中を除けば十年振りぐらいの抱擁であった。
「おめでとうございます!お嬢様!」
サリエルも泣き笑いでエレーヌの背中に手を回す…
その直前に、エレーヌはサリエルにフロント・スープレックスを掛けた。
またも3m程放り投げられたサリエルが立ち上がると…エレーヌは窓辺で背を向けていた。
「お嬢様…?」
サリエルはエレーヌの変化に気づいた。エレーヌの乙女回路が沈黙したのだ。
「ありえませんわ」
「…お嬢様…あの…マナドゥ先生があまりお好きではないのでしょうか?」
エレーヌはサリエルに背中を向けたままだったが、サリエルのセンサーはエレーヌの乙女回路が再起動するのを検出した。
「好きか嫌いかなんてそんなの解る訳ないじゃない!」
エレーヌは振り返り、エレーヌではない別人のようになって、半泣きでサリエルに掴みかかって来た。
「わっかんないわよ!そんなの意識した事もなかったんだから、解るわけ無いでしょう!そうでしょう!?」
サリエルは懲りずにエレーヌを抱きしめる。
「それでいいんです、お嬢様、それが普通の乙女なのですわ!」
その言葉に反応したかのように、エレーヌの乙女回路は再び停止した。エレーヌは…今度はサリエルを投げずに、ただ突き飛ばし、また背を向ける。
「ありえませんわ」
「何故…ですの…?」
「それは私が伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートだからですわ」
「それでは…解りませんわ…?何故ですかお嬢様!」
「もうお黙りなさい」
サリエルは今日は引き下がらなかった。ここが何かの分岐点だと思ったのだ。
「私は…お嬢様に幸せになっていただきたいのです!だからこういう事を有耶無耶にしたくありませんわ!どうかおっしゃって下さい!好き嫌いの問題では無いというのなら、何故ですの!?伯爵令嬢が心をときめかせてはいけませんの!?エレーヌ様は恋をしてはいけないとおっしゃいますの!?」
恐らく、相手が平民だからとか、そんな単純な事では無いはずだ。そもそも伯爵家の一人娘のエレーヌはいずれ女伯爵として爵位を継ぐ事になるだろうし、結婚して子供が生まれればその子供が爵位を継ぐのだから…別に結婚相手が貴族である必要は無いのだ。
「一度だけ申し上げますわ。私の人生は、私が選びますの。いい?二度と言わなくてよ。この話は終わりですわ…少し一人にして下さるかしら」




