十月のエリーゼ 第十話
ローザンヌ公爵の娘でオーギュスト・ストーンハート伯爵の妻。すなわちエレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの実母。
クリティーナ・ローザンヌは、来年五十になるとは思えぬ、若々しい美貌の持ち主だ…と、社交辞令では良く言われている。
エレーヌのプラチナブロンドは彼女譲りだ。
二年ほど前まで、エレーヌはクリスティーナの事を陰では「仮面大将軍」と呼んでいた。それは実の母である彼女の外見を揶揄した物だったのだが、一度本人の前で誤ってそれを口にしてしまい、地下牢に三十時間強閉じ込められてからは、日常生活でもその言葉を口にしないようにしていた。
さて、蒸気自動車の後を大慌てで追い掛けたエレーヌ達の馬車は、蒸気自動車に続いて伯爵屋敷の正門をくぐった。
先程までの激しい雨は小雨に変わっていたが、蒸気自動車のキャビンからは、大きな傘を手にした男が二人、降りて来た。
そして揃いの黒いトレンチコートを着た男の片方が、運転席に向けて傘を差し出すと、その扉は開き…
エレファント・スリーブのある黒紺色のドレス、巨大な羽根飾りのついた帽子、見る物を全て凍りつかせるような強烈な目力、そして一見すると竹で出来ているように見えるが実は鋼鉄で出来ているらしい扇子。
クリスティーナ・ローザンヌは、伯爵屋敷の敷地へと降り立った。
気がつけばエレーヌは傘も差さず、自分で扉を開けて馬車から降りていた。鞄はサリエルが二つ共持っていた。
ばらばらに出て来たメイドは整列が間に合わず、
「お嬢「お「様「様おか「おか」えり」ませ」なさい」ませ」
ばらばらの挨拶をしてしまった。
そして最後に、屋敷の玄関ホールから慌てて駆け出して来たディミトリが、濡れた大理石で滑って転倒し…クリスティーナ・ローザンヌの足元近くまで、仰向けにスライディングして来た。したたかに頭を打ったらしく、白眼をむいて。
クリスティーナは一つ、溜息をついた。そして。
「車を奥のガレージに入れますわ」
そう言って、もう一度蒸気自動車の運転席に乗り込んだ。
サリエルは声にならない悲鳴を上げた。エレーヌもそれに気づいた。
ディミトリを完全に無視し、クリスティーナは蒸気自動車を運転し古いガレージの方へ向かう。お付きの黒服二人は、先に走って行きガレージの扉を開けようとしているらしい。
サリエルは走った。全力で。エレーヌも続いた。全力で。
「アンタ何しでかしたの!!」
「お叱りは後で!!」
しかし二人は間に合わず、巨大な両開きの扉は、二人の黒服の手で開かれた…
エレーヌとサリエルは…
がらんどうの古いガレージにヘッドスライディングを決めていた。
そこには巨大な像の象も、ランプの魔人も造りかけのゴリラ達も居なかった。
「貴女は年相応の落ち着きに欠けていますわ」
クリスティーナはガレージに蒸気自動車を入れ運転席から降りると、そう呟いた。
エレーヌは冷や汗を流す。
「ぎゃぁああああああ!!」
「奥様おやめ下さい!悪いのはこの私です!!」
エレーヌの悲鳴が、サリエルの哀願が…伯爵屋敷の、普段は閉鎖されている、通称「開かずのリビング」に響く。
ここは本来伯爵家の家族用リビングなのだが、クリスティーナが来た時にしか使わない。特にエレーヌはどんなに怒り狂っていてもこの部屋の敷居だけはまたがないので、サリエルなどがどうしてもエレーヌから逃げたい時に使う事もある。
「ぎゃぁああああああ!!」
「奥様どうか罰ならば私にお与え下さい!!どうか御願い致します!!」
エレーヌがこの部屋を恐れるのは、壁にクリスティーナの等身大の肖像画があるからだと言われている。普段はそれが結界として働き、エレーヌは入れないらしい。
勿論今日のように、抵抗空しくクリスティーナに捕まり小脇に抱えられ、そのまま連れ込まれて扉を閉められた場合は別だ。
リビングに居るのはクリスティーナとエレーヌとサリエルだけだった。他の者は厳重に人払いされ、遠ざけられた。
「ぎゃぁああああああ!!」
「御願い致します!罰ならばどうか私にも分け与えて下さい!奥様!」
十分後。クリスティーナは手袋をつけなおしながら、リビングから出て来た。
「嘆かわしいですわ。もう、十七になるというのに」
「お嬢様…申し訳ありませんお嬢様…私が身代わりになれず申し訳ありません…」
サリエルはボロボロと涙を流しながら、魂の抜けたエレーヌを背負い、二階のエレーヌの部屋の前にやって来た。しかし。エレーヌのリビングや寝室に繋がる両開きの扉は、巨大な錠前と鎖で何重にも封印されていた。
扉には張り紙もあった。
『私が居る間は家族の部屋を使うように。クリスティーナ・ローザンヌ』
「サリエル…もうこの辺りで良いですわ…介錯…御願い出来るかしら」
とりあえず、父オーギュストの部屋に運び込まれたエレーヌは、四つん這いになったまま生気の消えた顔でそう言って、例の段平をサリエルに渡そうとした。
「自棄を起こさないで下さい、お嬢様…それに…お母様のおっしゃる事にも一理ありますわ…」
「もうすぐ十七になる娘を膝に乗せて、尻を丸出しにして平手で叩くのが母親ですの!?赤い血の流れる人間ですの!?」
「それは…その…ですがお母様の、年相応の落ち着きを身に着けなさいというお言葉は…」
「お黙りなさい!」
そう言って立ち上がり、振り上げた手を…エレーヌは止めた。サリエルも叩かれるのは覚悟していたのだが。
「お嬢様…?」
「…これではあの女と一緒ですわ」
エレーヌは上げた手を、ただ降ろす。
次の瞬間。表で爆音がした。
「ひっ…!」
「…全く」
サリエルは驚き、作っていた氷枕を落としそうになる。クリスティーナが持ち込んだ大砲が空砲を撃ったのだ。午後五時の時報である。
エレーヌはソファにうつ伏せに寝そべり、サリエルはそのお尻に氷枕を乗せる。
階下で騒ぎ声がする…先程から、一度や二度ではなく。恐らく、クリスティーナが暴れ、誰かが平謝りしているのだろう。いちいち気にしてはキリが無かった。
サリエルは窓の外を見る。ここからはあの古いガレージが見える…一体誰が?気を利かせて山車を片付けてくれたのだろうか。
お嬢様の為に心を込めて作った、お誕生日のお祝いの為の山車だが…今年は不要になってしまった。今年のお嬢様はお誕生日に素敵な殿方とデートをするのだ。
必ずそうなるように、計略を進めなければいけない。
そんな時に、あの山車が奥様の目についていたら…どうなっていたか…
何事にも伝統と格式を重んじる奥様には、あの山車のパレードの愉しさは理解していただけないだろう。
きっとお嬢様に、お嬢様の方にきついお仕置きをなさるに違いない。
午後七時定刻。
「晩餐の準備が整いました」
いきなり戦列を離脱してしまった執事長ディミトリに代わり、ベテランメイドのヘルダがクリスティーナの側についていた。
今までエレーヌについていたサリエルは、クリスティーナの視線がこちらを向いてない事を確認してから、右手で自分の口、左肩、耳、左肘の順番に触れる。
ヘルダも…クリスティーナが見ていない事を確認し、右手で、自分の左肘、左肩、耳の順に触れる。
ヘルダは静かにその場を離れた。勤続三十年のベテラン、ヘルダはそれなりによく持ち場を支えてはいたが、付きっきりでは身がもたない。
代わって奥様番についたサリエルは若干十八歳ではあるが、その技能と知識、そして忠誠心は家中随一だった。
廊下を撤退するヘルダは少し目のかすみが酷く、現れた人影を同僚のメイドと見間違え、すがりついてしまった。
「疲れましたわ…」
「…感謝していますわ」
抱擁を返して来たその声の主が、いつもの同僚でない事に気付いたヘルダは、驚いて顔を上げる。
「お嬢様…!」
「貴女も体に気をつけるのよ、貴女まで倒れたらおしまいですわ」
エレーヌはいつになくそう優しく言って手を離し、肩を落とし、伯爵家の家族用ダイニングへ向かって行き…最後の曲がり角を曲がる直前に、スッと背筋を伸ばす。




