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魔犬さんと私  作者: 喜多邑 葵
第三章
19/19

姿態

 開け放った窓と窓の間は風の通り道となって、硝子の花瓶に活けられた花の白い花弁を柔らかく揺らした。合わせて聞こえるのは、遠くで森の木々が波立つ音。夏の風は爽やかに、緑の香りを運んでくる。

 マルタは思い切り伸びをすると、鞄を肩に引っ掛けて長椅子を振り返った。

 洗濯物は干し終わった――この陽気なら直ぐに乾いてしまうだろう――し、屋敷の掃除も久しぶりに気合を入れてやった。やるべきことをやり終えると気持ちがすっきりする。

 長椅子では黒髪の男が横になって、分厚い本のページを捲っていた。

「ルドルフさん、今からパニーラさんのお店に行ってくるけれど、何か街で買ってくるものはない?」

 昨日の夜に描き上げたばかりの魔術符の束が入った鞄を抱えて、長椅子の上から覗き込む。さらりと流れた闇色の髪の下から月色の瞳が現れた。

 マルタは音を立てた心臓を誤魔化すように瞬いて、交わった眼差しの強さからほんの少しだけ逃げる。

 ルドルフの視線がマルタから逸らされる。卓子テーブルの上に移ったその先を追いかけると、マルタは「ああ」と手を合わせた。

「新聞ね。買ってくるわ」

 この魔物は、人間界の本や新聞を読むのが好きらしい。たまに外出に着いて来ると決まって本屋に寄るし、マルタの買い物のついでに頼むのは決まって新聞だ。

 最早マルタよりも余程世情に通じているのではないかと思える。

 ルドルフの答えを先回り出来たことが嬉しくて、マルタは微笑んだ。長椅子に寝そべった男の眉根が寄る。ルドルフは口を開きかけて、逡巡したかのように目を逸らした。

「……さっさと行って来い」

 結局、喉に何か引っかかった表情でそう告げた後、彼は本に意識を戻してしまった。

「ええ、行ってきます」

 今度、新聞を取ることを提案してみようかしら、なんて考えながら、玄関へと向かう。扉を開けた向こう側の眩しい日差しに一瞬だけ眩んで、マルタは目を細めながら屋敷を後にした。




 どうもにやにやしてしまっていけない。

(ちょっと話が出来たとか、考えてることがわかったとかで喜び過ぎよね)

 自らの拙い恋心を自覚してからというもの、頬が緩みやすくなってしまっている。少しの接触で舞い上がって、心臓が煩くなって、相好が崩れてしまうのだ。気を引き締めても、四六時中張り詰めているわけにもいかず、これがなかなか難しい。近頃、別に矯正する必要もないのではないかと考えるようにすらなった。ルドルフが嫌がっていないのなら、別に――

(……そう言えば、良く目を逸らされる気がするのよね)

 先程もそうだったような。

 あれは、嫌がっているということだろうか。

(笑顔を嫌がられるのは、結構辛いわ……)

 へらへらしているのが気に入らないというのなら、努力して頬の筋肉を鍛えなければならない。しかし、ルドルフは嫌なことははっきりとマルタに言うと思うのだが……。

(いえ、『笑うな』って言われたこと、そう言えば何度かあるような)

 あれは困惑から出た言葉だと思っていたから気に留めていなかったけれど、もしも嫌悪から出た言葉だったとしたら。

(どうしよう……、ルドルフさんに訊ねてみた方が良いのかしら)

 悪感情を抱いているような気配は無かったと思うが、マルタの思い込みに過ぎないのだろうか。

 そんなことをぐるぐる考えている内に、七竃ななかまどの飾りの前を通り過ぎかけて、マルタは慌ててその扉を開いた。取り付けられたベルが来訪の合図を鳴らす。

「こんにちは、パニーラさん」

 薬品の匂いが漂うアルムグレーン商店の奥、カウンターで書き物をしていた女性が顔を上げた。白いものが交ざった栗色の髪が、結い上げた髪留めから一筋溢れている。

「ああ、マルタ。退魔符を持ってきてくれたのかい。悪いねえ、急に」

「いいえ、この時期は魔物も活発になりますから」

「そうなんだよ、困っちまうよねえ」

 眉尻を下げてため息を吐いたパニーラが、カウンターに広げていたものを端に寄せる。隠すつもりもないらしいそれは、便箋のようだった。

「となり町の親戚がさ、最近魔物の被害が多くて困ってるんだって。山や森の中だけじゃなく、家畜まで襲われてるらしい。いつこの町でも被害が出るか分かったもんじゃないからね」

「そうなんですか。寧ろ、この辺で魔物の被害はあまり聞かないですよね、今年は」

「この辺の魔物がとなりにいっちまってたりして。ご領主様が視察を遣わしたなんて噂もあるみたいだよ」

「それは確かに大事ですね」

 直近の町がそんな状態では、不安にもなるというものだ。

「そう、だからうちもね。となり町とは行き来もあるし、備えあれば憂いなしってね」

 鞄から魔術符の束を取り出して並べると、パニーラは枚数の確認を始めた。

 マルタは店の隅に置いてある丸椅子を引っ張ってくると、カウンターの前に腰掛ける。

 退魔符を三束ほどお願いしたい、とパニーラが訪ねてきたのが四日ほど前のことだ。いきなりどうしたのだろうかと疑問に思いながら符を描き上げたのだが、となり町の話を聞いての事だったのか。

「はい、きっちり三束ね。ありがとうよ」

 受け取った代金を巾着に仕舞う。

 パニーラはふと窓の外に視線をやって目を細めた後、マルタをしげしげと見詰めた。

「あんた、この日差しの強い中、帽子も日傘も無しで来たのかい」

「ええ、あとは新聞を買って帰るだけですし」

「まあ、熱の籠らなさそうな頭をしちゃいるけどねえ。若い娘なんだから、日焼けの心配くらいするもんだよ」

「日焼けですか……」

 そう言えば、子供のころは肌が赤くなって痛い思いをしたこともあったっけ。

 己の腕に視線を落としてみる。日焼けには程遠い、生白い肌だ。

「あんたの場合、家で書き物ばかりしているから余計なお世話かも知れないけどね」

 からからと笑うパニーラに、「そうでしょうか」なんて良くわからない返事を返して、マルタは魔術道具の並べられた店を出た。

 新聞を買って帰る道すがら、何となく日陰を選んで歩く。

 その足取りも、仕立屋の店先でぱたりと止まった。

 硝子張りの大きな窓の向こうに、明るい桃色のドレスが飾ってある。ふわりと裾が広がって、フリルのたくさんついた可愛らしいドレス。

 その衣装とマルタを隔てる硝子窓に、月白の髪を伸ばした女の姿が映り込んでいた。物言いたげな紫紺の瞳がマルタを見詰めている。

 前髪が風で乱れているのが気になった。手櫛で綺麗に直して、けれど、屋敷に帰り着くまでに再び乱れてしまうかも知れないと思うと、気分が落ち込む。

 自分の容姿はおかしくないだろうか、なんてこんなに不安になったのは初めてだ。

 顔立ち自体はそう悪くないと思ってきたけれど、その他の部分には全く自信がない。肌や髪の手入れは最低限しかしていないし、おしゃれの努力も怠ってきた。こうなると、悪く無いと思ってきた顔立ちですら、自惚れに過ぎないのではないかと思えてくる。

 マルタは俄に恐ろしくなった。

 ルドルフの目に、自分はどのように映っているのだろうか――

 無理矢理硝子から視線を引き剥がすと、思い切り頭を振った。頬を叩いて気持ちを入れ替える。

(私の見た目なんて、関係ないじゃない)

 不快にさせないために、最低限の身だしなみだけは整える。それだけでいいのだ。別に、ルドルフの気を引く必要はない。

(……でも、ルドルフさんも側にいる人間は綺麗な方が良いかも知れないし)

 はっとしてもう一度頭を振った。

 自分が良く見られたいからといって、あれこれ言い訳をしようとしている。浅ましい。

(早く帰りましょう)

 帰って、少しでも美味しい夕飯を作る。マルタがルドルフのためにすることは、そういうことなのだ。勘違いしてはいけない。

 意識を硝子窓から引き離そうと、よく確認もせず歩き出したのがいけなかった。マルタは踵を返した先に人がいることに気が付かず――そのまま鼻先を強かぶつけてしまった。

 あ、と喉から情けない声が漏れ、よろけて抱えていた新聞を取り落とす。ぶつかった相手も慌てて体制を立て直そうとしたのか、踏ん張るようにして足を踏み出した。

 それが丁度、新聞紙の上だった。

「あ!」

 マルタが声を上げても後の祭り。

 新聞の上から足をどけた男は、「うわあ、これはすみません!」と押しつぶされたそれを慌てて拾い上げた。

「あちゃあ、足跡がくっきりついてるや。これは弁償だ」

 男は眉尻を下げて、くたりと汚れた新聞を翳して見せる。

 まだ若い。マルタと同じ歳くらいだろうか。

 彼が困ったように頭を掻くと、胡桃色の髪が乱れた。

「本当にごめん。買って返すから。……ええと、どっちに店があるのかな」

 言葉を返す前に、男の視線が彷徨いだす。マルタは慌てて声を上げた。

「あの! いいの、私もぼうっとしていてぶつかってしまったんだから。こっちこそごめんなさい」

「え、弁償しなくてもいいって言うの?」

「ええ」

 彼は目を丸くしてマルタを見詰めた。眼差しは、はしばみ色をしていた。

「いや、駄目だよ。ぶつかったのはお互い様でも、君の新聞を踏んだのは紛れも無く僕の仕業なんだ。早く売っている店に案内してくれ」

 謝られている筈なのに何処か追い立てるような男の勢いに圧倒されて、マルタは回れ右をする。引っ張られながら道案内をするという不思議な構図のまま、結局来た道を戻ることになった。




 男はクリスと名乗った。

 やっぱり弁償してもらうのは悪いと渋るマルタに新しく買い直した新聞を押し付け、人懐こそうな笑顔を浮かべる。

「それじゃあマルタ、お礼の代わりにこの町を案内してよ。僕、ここに来たばかりで何処に何があるのかも分からないんだ」

 そう言われてしまうとマルタも断れなかった。

 半ば強引にクリスに連れ回され、通りの名前から店の位置、果ては美味しい食堂の場所まできっちり説明させられてしまう。

「クリスは何の用事でこの町に来たの?」

 ひと通り語り尽くしたところで、何となくマルタはそう訊ねた。頭の何処かにパニーラの話が残っていて、もしかしたらとなり町から避難してきたのかも知れないと思ったのだ。

 しかし、クリスの答えは至極あっさりとしたものだった。

「仕事だよ」

「仕事……」

「そう」

 仕事。この気さくで強引な青年からその言葉を聞くのが不思議な気分だった。

 耳には不思議な形の飾りを嵌めているし、首から下がったネックレスの先には、何故か指輪がぶら下がっている。偏見を承知で言うと、仕事をしている者には見えないのだ。

(どんな仕事なのかしら)

 ふと訊ねてみたくなって、けれどもマルタより先にクリスが口を開く。

「そういうわけでさ、暫くこの町に滞在することになるんだけど、訊きたいことがあって」

「ええ、何?」

 もうこの町については話し尽くした気分でいたが、まだ足りなかったのか。もういくらでも質問に答えてやろうと開き直った気分でクリスを見ると、彼は思いの外真剣な顔をしていた。

「何か困ったこととか起きていないかな。特に――魔物に関して」

 マルタは目を瞬いた。

「……あなた、もしかして首都から来たの?」

「え? まあ、うん、そうだけど……」

 マルタは少し微笑ましい気分になった。都会には滅多に魔物が出ないから、地方に訪れる人間は良く心配するのだ。魔物に襲われはしないかと。

 この、元気の塊のような男も同じことを不安に思っているのかとおもうと、何だかひどく可笑しかった。

「そうね、今年はとなり町では随分被害が出ているようだけれど、この町では対照的に魔物がおとなしいの。それにいくら魔物でも、町中まで出てくるのは稀だから、安心していて大丈夫よ」

 勿論この例から漏れる魔物もいると、マルタは良く知っている。

 人と会話することが出来る上、人の姿をとることも可能な魔物も存在するのだ。彼らと、魔術を扱う獣のような下級魔族とは格が違いすぎる。彼らは人間の社会に溶け込んで暮らしているのだ。そしてそういった魔族は寧ろ、首都のような場所にこそ多く居るのではないかとマルタは睨んでいる。

 ただ、今は言う必要のないことだろう。いたずらに不安を煽るようなことは口にするべきではない。

「うーん、そういうことを訊きたかったんじゃないんだけど」

 クリスは苦笑いを浮かべて胡桃色の頭を掻いた。

「つまり、特筆して困ったことは起きていないって言うんだね?」

「ええ、そうよ」

「助けを求めたいこととかも、ない?」

「ないけれど……。どうしてそんなことを訊くの?」

 念を押すクリスを不審に感じ、マルタは首を傾げた。

 彼からは、怯えた感情が感じられない。寧ろ榛色の瞳には、力強い光すら灯っているように見える。

「あれ」とクリスは頭をひねった。

「言ってなかったっけ? ――僕は国家魔術師なんだよ」

 マルタが目を瞠る先で、魔術師の男は榛色の双眼を細め、微かに笑った。

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[一言] 喜多邑 葵さま 初めまして。 他の作者様のブックマークからこの作品を知り、面白くて一気に読ませて頂きました。 今も何処かで、お話は書かれているのでしょうか… 最後の更新から少しお時間が経…
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