一話
男は走っていた。
崩れた国道を、半ば転がるように駆け抜ける。ひしゃげた乗用車を飛び越え、道路脇に倒れた電柱を踏み、赤黒い水溜まりを軍靴で蹴散らした。
ぐちゃり。
嫌な音が足裏から伝わる。
血だ。
もう珍しくもない。
人の血なのか、化け物の血なのかも分からない。ただ、この世界では地面が赤黒く濡れている事の方が普通になっていた。
「はっ……はっ……!」
男の呼吸は荒い。
肺が焼けるように痛い。喉は乾ききっていて、息を吸うたびにガラス片を飲み込んでいるみたいだった。
右腕はなかった。
肩から先が丸ごと消えている。三日前に喰われたのだ。焼け焦げた断面だけが黒く固まり、制服には乾いた血がこびりついていた。
それでも生きている。
生き残ってしまった。
「ギィィィィィィ」
背後から鳴き声が響く。
男が振り返る。
いた。
崩れたビルの隙間。潰れたバスの上。信号機にぶら下がるようにして、黒い影が蠢いている。
人間ではない。
あんな生き物、地球のどこにもいなかった。
四足歩行。異様に長い腕。骨みたいに細い脚。頭部には目がなく、代わりに縦に裂けた口だけが存在している。
なのに。
確実にこちらを見ていた。
「……っ」
男の背筋を冷たい汗が流れる。
あれは、“ハウンド”。
人類がそう呼び始めた化け物だった。
空が割れた日に最初に現れた存在。
最初は犬ほどの大きさしかなく、警察の拳銃でも対処できた。SNSには「変な生物」「海外の新種」なんて動画が溢れていた。
だが、一週間で変わった。
ハウンドは人を喰った。
そして学習した。
銃を避けるようになった。待ち伏せを覚えた。夜に群れで狩りをするようになった。
一ヶ月後には、自衛隊が壊滅した。
男はその時の映像を今でも覚えている。
戦車の上に飛び乗り、装甲を噛み砕くハウンド。
逃げ遅れた隊員を、生きたまま引きずっていく黒い群れ。
通信機越しに聞こえた絶叫。
そして。
『撤退しろ!!』
上官の怒鳴り声。
それが、男が聞いた最後の命令だった。
世界は終わった。
本当に、呆気ないほど簡単に。
最初、人類は希望を持っていた。
軍がある。
国家がある。
核がある。
だが全部無意味だった。
空は割れ続けた。
そこから降ってくる化け物は増え続けた。
しかも奴らは、人類を学習していった。
食えば食うほど、人間を理解していった。
そして。
知性を持つ個体まで現れ始めた。
群れを統率する化け物。
人間の言葉を理解する怪物。
生き残った兵士達は、そいつらを“ロード”と呼んでいた。
遭遇した部隊は、ほぼ全滅していた。
「ギィィィィィ!!」
近い。
男が反射的に走る。
崩れた看板を飛び越え、横転したトラックの横を駆け抜ける。
だが。
足がもつれた。
どしゃ。
派手に転倒する。
「ぐっ……!」
頬をアスファルトに打ちつけた。
鉄の味が口の中に広がる。
立て。
立たなければ死ぬ。
頭では分かっている。
だが身体が動かなかった。
限界だった。
三日間まともに寝ていない。水も食料も尽きていた。
そして何より。
心が折れていた。
昨日、最後の仲間だった若い隊員が喰われた。
まだ二十歳そこそこだった。
震えながら、「母親に会いたい」と言っていた。
その頭を、ハウンドが噛み砕いた。
男は助けられなかった。
いや。
逃げた。
見捨てたのだ。
「……は」
乾いた笑いが漏れそうになる。
正義感も使命感も、とっくに消えていた。
残ったのは、生き汚さだけだった。
その時。
ふわり、と匂いがした。
「……?」
男の鼻が動く。
温かい匂いだった。
油。
肉。
スープ。
ありえない。
この世界で、そんな匂いがするはずがない。
男がゆっくり顔を上げる。
光が見えた。
白いLEDの光。
コンビニだった。
「……は?」
男が固まる。
営業中。
そう書かれた看板が、終末の街を明るく照らしていた。
ガラス窓。
自動ドア。
綺麗な床。
あまりにも普通だった。
まるで世界が壊れる前みたいに。
「ギィィィ!!」
ハウンドが迫る。
男が反射的に拳銃を向けた。
残弾二発。
当たっても意味は薄い。
それでも撃つしかない。
だが。
ハウンドが止まった。
「……?」
コンビニの入口まで数メートル。
そこから先へ進めない。
見えない壁でもあるみたいに、ハウンドが唸りながら地面を引っ掻いている。
「ギ、ギィ……」
後ずさった。
怯えている。
あの怪物が。
「なんだよ……ここ」
男が呟く。
分からない。
だが。
助かった。
男は這うようにコンビニへ近づく。
ガコン。
自動ドアが開いた。
温かい空気が流れてくる。
白い照明。
整った商品棚。
肉まんの湯気。
コーヒーマシンの音。
冷蔵ケースの低い駆動音。
壊れた世界とは思えなかった。
ただのコンビニ。
本当に、どこにでもありそうな普通のコンビニだった。
「いらっしゃいませー」
レジから声がした。
若い男だった。
二十代半ばくらい。黒いエプロン。眠そうな目。気怠そうに雑誌を読んでいる。
終末には似合わないほど、普通の店員だった。
「水……あるか」
男が掠れた声で言う。
喉はカラカラだった。何日まともに飲めていないのか、自分でも覚えていない。
「ありますよ」
店員がレジ横を指差す。
ペットボトルが並んでいた。
大量に。
しかも冷えている。
男の目が見開かれる。
「な、なんで……」
「営業中なんで」
意味が分からなかった。
だが、男は吸い寄せられるように冷蔵棚へ近づく。
水。
弁当。
サンドイッチ。
おにぎり。
全部ある。
しかも新しい。
さっき並べたみたいに。
「……嘘だろ」
男が震える手でペットボトルを掴む。
冷たい。
本物だ。
キャップを開け、一気に流し込む。
ごく、ごく、ごく。
水が喉を通る。
たったそれだけで、涙が出そうになった。
「……生きてる」
思わず漏れた声。
店員がちらりと男を見る。
「初めてですか?」
「……は?」
「ここ来るの」
男はしばらく答えられなかった。
何なんだここ。
何なんだこいつ。
聞きたい事は山ほどあった。
「……お前、誰だ」
男が警戒を隠さずに聞く。
レジの男は、気怠そうに雑誌を閉じた。
「店長兼オーナーです」
淡々とした声だった。
男は眉をひそめる。
そんな事を聞きたいんじゃない。
この世界で、こんな場所を普通に営業している人間がいる事自体がおかしいのだ。
「……名前は?」
一瞬だけ間が空く。
「玖条」
眠そうな声だった。
まるで世界が終わった事なんて、どうでもいいみたいに。
その瞬間だった。
外にいたハウンド達が、一斉に身体を伏せた。
「……?」
男の眉が動く。
ギリ、ギリ、と低い唸り声。
だがさっきまでとは違う。
威嚇じゃない。
怯えだ。
まるで群れの王を前にした犬みたいに、ハウンド達が入口付近で身体を縮めている。
そして。
ガコン。
自動ドアが、再び開いた。
男の身体が硬直する。
入ってきた。
ハウンドではない。
「……ッ」
男の喉が引きつる。
大きい。
明らかに。
外をうろついていたハウンドより、一回り以上。
いや。
二回りは大きかった。
天井近くまで届きそうな巨体。灰色の皮膚は硬質化した岩みたいにひび割れ、長い前脚の先には、人間の腕ほどある鉤爪が伸びている。
だが一番異様だったのは顔だった。
目がある。
黒い、濁った眼球。
ハウンド達には存在しなかったもの。
そして。
その目は、確かな知性を宿していた。
「……」
ロードが男を見た。
じっ、と。
まるで品定めでもするみたいに。
縦に裂けた口がゆっくり開く。
「……ニンゲン」
男の呼吸が止まる。
喋った。
掠れた声。
石と石を無理やり擦り合わせるみたいな、不快な音。
だが。
間違いなく言葉だった。
「ヨワイ」
「ッ!!」
男が拳銃を向ける。
だが指が震える。
勝てない。
分かる。
本能で。
あれは別格だ。
「お客様」
レジから声。
一瞬。
空気が変わる。
「店内での戦闘は禁止です」
玖条が雑誌を閉じる。
眠そうな目。
だが、その視線がロードへ向いた瞬間、空気が変わった気がした。
ロードが止まる。
ぴたりと。
黒い目が、ゆっくり玖条を見る。
数秒。
沈黙。
冷蔵ケースのモーター音だけが響く。
やがて。
ロードが口を開いた。
「……境界、守人」
男の眉が動く。
なんだ、それは。
玖条は欠伸を噛み殺しながら立ち上がる。
「久しぶりですね」
「グルルル……」
外のハウンド達が低く鳴く。
だがロードは動かない。
じっと玖条を見ている。
その様子を見て、男の背筋に寒気が走った。
会話している。
しかも。
上下関係がある。
ロードは玖条を警戒していた。
「――グゥラ・ナハト、エルメイ」
玖条が低い声を出す。
男の眉が動く。
知らない言葉だった。
英語でも、中国語でもない。
喉の奥を無理やり震わせるような、不気味な音。
ロードの黒い目が細くなる。
「……グラ、エル」
返した。
男の呼吸が止まる。
鳴き声じゃない。
会話だ。
しかも。
テンポが、人間の会話そのものだった。
「エル・グラド。ノーウェア」
玖条が続ける。
ロードが低く唸る。
「グラ……メル、ヴァ」
「あー、今日は人肉系ないですね」
玖条が面倒そうに頭を掻く。
「ホットスナックならありますけど」
その瞬間。
ロードの口元から透明な粘液が垂れた。
外のハウンド達までざわつき始める。
「ギィ……」
「グルル……」
尻尾を揺らしている。
男は自分の頭がおかしくなった気がした。
化け物が。
唐揚げを前にして興奮している。
「一本ですか?」
「……二」
ロードが答える。
玖条が少し驚いた顔をした。
「珍しいですね。今日は食欲あるじゃないですか」
「狩リ、成功シタ」
「あー」
玖条が頷く。
「だから機嫌いいんですね」
普通だった。
本当に。
ただの常連客みたいな会話だった。
玖条が唐揚げ棒を袋へ入れる。
「千百四十円です」
ロードが長い腕をレジへ伸ばす。
ぼと。
置かれたのは、人間の眼球だった。
まだ動いている。
「……っ」
男の顔が引きつる。
だが玖条は気にしない。
「はい、ちょうどですねー」
ピッ。
レジが鳴る。
本当に。
ただのコンビニだった。




