瘴気と言われても、私だけ何も感じないみたいです。
「うわぁぁ~……うっ……」
赤い瞳がギロリとこちらを睨む。
その瞬間、思わず叫びそうになった私の口を、トットールが塞いだ。
「シッ……まりか。今は声を上げるな。」
こくりとうなずくと、私は音を立てないようにトットールの後ろに隠れた。
「久しぶりねぇ~!やっぱりミスリルがあるダンジョンなだけあるわぁ~!」
ダンジョン!?
ただの洞窟だと思っていたが、どうやらここはダンジョンらしい。
しかもマチルダは『ミスリルがあるダンジョンなだけあるわ~』と言っていた。
(それって結構やばいダンジョンなんじゃ……いや、聞かない方がいいわね……)
マチルダはさらりと髪をかき上げると、妖しい笑みを浮かべた。
「トット。こいつは私がもらうわね~!」
「あぁ~……見るな。」
私がちらちらと視線を向けていたのに気づいたのか、トットールが静かに私の顔を自分の胸元に押し当てた。
すると――
ヒュッ――キィンッ!
鋭い金属音が耳に届く。
「はい、終わり~!」
マチルダの明るい声が洞窟に響いた。
私はおそるおそるトットールの服から顔を上げると、足元には先ほどまで私を睨んでいた魔物が静かに倒れていた。
(……はや)
あまりの早さに、思わず二度見する。
「えっ……と……」
「ふふ……驚いた?私こう見えて……バリバリの剣術使いなのよ~!」
「……」
いや、それは見ていればなんとなくわかるけど……
「いや、そこじゃないだろう。まりかが驚いているのは……」
「えっ?違うの!?」
マチルダがギュンッという風切り音とともに振り向いた。
(絶対的に回しちゃいけないやつだ……)
少し視線を逸らしながらうなずくと、トットールが続ける。
「……魔物の弱さにだろ。」
「……」
(いや、それも違うわ!!ってか、そもそも絶対弱くないでしょ!この魔物……)
全身を纏う黒い毛並み。
頭には大きな角が二本生えていて、口からは何でも噛みちぎることができそうな鋭い牙が見えている。
「それにしても……こいつがここにいるなんてな。」
「えぇ……魔災の影響なのかもしれないわね。」
二人の話からすると、この魔物自体は弱いものではなさそうだ。
「こいちゅは……?そうしゅりゅの?」
マチルダが倒した魔物を指さすと、トットールが空中をつまむように指を動かした。
すると――
空間が歪んで、何もなかったところに穴が開いた。
「ヘルモスっていう魔物だ。」
トットールはヘルモスを手に取ると、そのまま穴の中にしまっていく。
穴に消える寸前、ヘルモスの首がこちらを向いた。
(ひぃぃ……でも、なんだか美味しそう~……)
「一応しまっておくか。素材にはなるしな。」
「そうね、お肉としては一級品だし、戻ったら解体してもらいましょ~。」
一級品という言葉に、思わず喉の奥がごくりと鳴った。
ぐぅ~~~~
そしていつもの如く……
私のお腹の音が鳴り響いた。
「とと……こりぇ、たべりぇりゅの?」
思わずそう聞くと、マチルダとトットールが一瞬だけ顔を見合わせた。
「あぁ、食べられるぞ。ただし――」
トットールが言葉を切る。
「普通は、な。」
「ふちゅーは……?」
(これは普通じゃない……ってこと?)
お腹がすいたこともあって、食べられないと聞くと、心なしか声のトーンが下がる。
そんな私を見て、マチルダがくすっと笑った。
「瘴気をたっぷり浴びた魔物はねぇ、そのまま食べると体を壊すのよ~。」
「か、からだ……?」
「軽ければ吐き気やめまい、ひどいと魔力が暴走することもあるわねぇ。」
「……」
(それ、絶対ダメなやつじゃない!?)
トットールが穴を開けていた空間をじーっとみる。
すでにこの場に魔物の姿はない。
だが、なんとなく……一歩後ろに下がった。
(異世界……こわっ……)
海外旅行に行く時も知らない地に行くわけだから怖さはあった。
でもそれ以上に、今の方が数倍怖い。
「……ふふっ。そんなに怖がらなくて大丈夫よ?ちゃんと処理すればいいだけなんだから。」
「そうだな。瘴気を抜けば問題ない。あとは普通の生き物と変わらないからな。」
「……しょーき……」
聞き慣れない言葉を、ぽつりと呟く。
(さっきも聞いたな)
「この空気のことよ~。見えないけど、身体にはしっかり影響が出るの。」
マチルダはそう言いながら、軽く肩を回した。
「長時間浴びると、体調崩すから気をつけなさいねぇ~。」
(空気か……)
スンスンと鼻を鳴らして嗅いでみるが、いつもと変わらない。
むしろ洞窟の中だからか、苔の匂いや、梅雨のような湿った匂いを感じる程度だ。
(今のところ体に異変とかはないけどなぁ……)
「……ととと、まちりゅだはだいじょぶにゃの?」
「俺たちは慣れてるから平気だ。それに……」
「不思議だけど、いつもより不快感は少ないのよね。」
「へぇー……」
不快感が全然分からない。
「敵はある程度の強さなはずなんだけど……不思議ね。」
マチルダの言葉に、トットールも静かにうなずく。
「普通なら、もう少し影響が出てもおかしくないはずなんだがな……」
(普通なら……?)
その言葉が、妙に引っかかる。どのくらいの影響が出るかが想像できないけど……
(風邪を引いた時みたいな感じなのかな)
私は自分の手を見つめた。
震えてもいなければ、息も乱れていない。
頭も、はっきりしているし、冷や汗もかいていない。
(ん~……やっぱり、何も変わらないわね)
自分の身体をバタバタと動かして確認していると、二人は私の動きに笑い始めた。
「ふふっ、何してるのよ。」
「変だぞ……」
空気が柔らかくなる。
その時――
ぴたり、と。
空気が止まった。
トットールたちの笑い声は消え、鋭い視線が洞窟の奥へと向けられた。
「……っ」
「……来るわね。」
その声は、さっきまでの軽さとは別人のようだった。
空気が、さらに重くなる。
押し潰されるような圧。
それなのに――
(……やっぱり、平気)
その違和感だけが、はっきりと残った。
次の瞬間。
ずるり、と。
闇の奥から、何かが這い出てきた。
「にゃ、に……ありぇ……」
それは――明らかに、この場の空気を変えている“元凶”だった。
その存在を見た瞬間。
トットールとマチルダの呼吸が、わずかに乱れる。
「……嘘でしょ」
「なんで、こんな所に……」
二人の声は、かすかに震えていた。
――それなのに。
(……やっぱり、何も感じない)
私だけが、その異常を“感じていなかった”。




