第8話 回収不能欄の人間たち
帳簿部屋に入ると、ノアはまず窓を見た。
高い位置にある小さな窓だ。
外は見えない。
それでも、鉱山の檻よりはましだった。
「座れ」
レイジが言うと、ノアは床に座りかけた。
「椅子でいい」
ノアは戸惑った。
それから、恐る恐る椅子に腰を下ろす。
椅子に座るだけで、許可が必要な子供だった。
マルタは入口近くに立っていた。
「私は厨房に戻った方がいいんじゃないかね」
「戻る前に確認する」
「何を」
「働いた分が、どこに消えているか」
マルタは口を閉じた。
帳簿を開く。
帳簿には、名前、借入理由、最初に借りた金、管理費、罰則、今の状態が一人ずつ書かれていた。
状態欄に、赤い文字が並んでいた。
病気、逃亡、作業不能。そう書かれた者たちは、すぐ下の鉱山候補や回収不能の欄へ落とされていた。
人間の状態ではない。
在庫の状態だった。
レイジは最初にノアの紙を出した。
「薬代20万ルク。妹の名前は」
「ミナ」
「薬は届いているのか」
ノアはすぐに頷いた。
「最初の分は。熱が下がったって、近所のおばさんが教えてくれた。でも、続きの薬がいる。だから、ぼくは返す。返したら、また薬を――」
「月にいくら返せる」
ノアは固まった。
数字を聞かれることに慣れていない顔だった。
「分からない」
「今の仕事は」
「水運び。薪拾い。掃除。あと、馬小屋」
帳簿では、ノアの労働は管理費と相殺されていた。
返済には入っていない。
働けば働くほど、食費と監督費が増えたことにされる。
きれいな詐欺だった。
「1日100ルク」
レイジは言った。
ノアが目を瞬かせる。
「え?」
「最初はそれでいい。30日で3000ルク」
「20万、あるよ」
「20万を見て動けないなら、3000から始める」
ノアは膝の上で手を握った。
「それで鉱山に行かなくていい?」
「契約できればな」
ノアは黙った。
その沈黙は、さっきまでの恐怖とは少し違った。
次にマルタの帳簿。
葬儀費、15万ルク。
厨房労働、あり。
返済計上、なし。
罰則予定。
「厨房では何をしている」
「残り物を分けたり、鍋を洗ったり、野菜を切ったり。重い水桶はもう無理だね」
「倒れたのは」
「水桶を運べと言われた日だよ」
レイジは帳簿に目を落とす。
倒れた日の欄には、労働不能。
その横に、罰則予定。
水桶を運ばせ、倒れたら罰し、働けなくなれば回収不能にする。帳簿の動きは、そういう順番だった。
きれいな失敗だった。
「厨房仕事だけにする。返済は1日200ルク」
マルタは笑った。
「そんなに価値があるかね、私に」
「倒れられるより安い」
「ひどい言い方だ」
「事実だ」
マルタは少しだけ目を細めた。
その顔は、怒ってはいなかった。
信じる前に、疑う癖がついた人間の顔だった。
扉が開いた。
リーゼが立っていた。
昨日と同じ古い鍵を持っている。
だが、今日は外套を着て、手に小さな革鞄を提げていた。
「入っても?」
監督役が嫌な顔をした。
「ここは男爵家の帳簿部屋です」
「契約上、私の家を取る話の書類もここに保管されています。確かめる権利は残っています」
リーゼの声は震えていた。
それでも、言い切った。
監督役は舌打ちして下がった。
リーゼは帳簿を見た。
「これは……人の名簿ですか」
「帳簿だ」
レイジは言った。
リーゼは紙に並んだ赤字を見た。
死亡、逃亡、病気、回収不能。そう書いて終わらせる欄を、レイジは一つずつ潰していった。
顔色が変わる。
「こんなふうに書くのですか」
「書く側には、便利なんだろう」
リーゼは黙って、革鞄から紙を出した。
「貴族契約の控えなら、少し読めます。父の書類を、何度も見ましたから」
「助かる」
「助けるために来たわけではありません」
リーゼはすぐに言った。
「昨日、私はあなたの言葉で家を守りました。だから、確かめに来ました。あなたが何をしたのか。何をしようとしているのか」
「見ればいい」
レイジは別の紙束を渡した。
病人の欄。
逃亡しかけた者の欄。
返せない時に家族を取る欄。
リーゼは一枚ずつ読んだ。
読み進めるほど、唇の色が薄くなる。
「この人は、妻子を返せなかった時のために入れられています」
「逃げないようにだろうな」
「逃げなければ、返せるのですか」
「逆だ」
レイジは紙を指で叩いた。
「家族を取られると思えば、逃げる前に壊れる」
ノアが小さく言った。
「ぼくも、ミナを返せなかった時のために入れるって言われた」
リーゼの手が止まった。
「妹を?」
ノアは頷いた。
「でも、ミナは病気だから。今はまだ、ぼくだけでいいって」
リーゼは何も言わなかった。
怒鳴らない。
泣かない。
ただ、紙を持つ指だけが白くなった。
「私は昨日まで」
リーゼは低く言った。
「契約書は、家や土地を守るためのものだと思っていました」
レイジは返事をしなかった。
「でも、これは人の息も止めるのですね」
リーゼは帳簿を閉じなかった。
「読める側が、読まないふりをしたら、同じ側です」
声は小さかった。
だが、逃げてはいなかった。
レイジは帳簿に視線を戻した。
「回収不能欄にいる人間は、全部が死んでいるわけじゃない」
ノア。
マルタ。
病人。
逃げかけた者。
働けるのに、罰で動けなくされた者。
「条件を変えれば、少しは返す」
リーゼがレイジを見た。
「それは、救うということですか」
「違う」
レイジは即答した。
「返済可能な状態に戻すだけだ」
マルタが低く笑った。
「同じことに聞こえるね」
「同じなら、男爵にも通る」
レイジは帳簿の赤い欄を見た。
この世界では、優しさは契約に負ける。
なら、優しさではなく、回収額で殴る。
それだけだった。




