第6話 鉱山送りの通告
バルガス男爵は、笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、レイジを見る目だけが変わっていた。
契約室から契約官が去り、リーゼが古い鍵を握ったまま出ていったあと、部屋には紙の匂いだけが残った。
机の上には、屋敷を取る話を止める書面がある。
朱印は乾きかけていた。
バルガスはそれを指先で押さえた。
「面白いことをする」
穏やかな声だった。
だから、首輪の内側が冷えた。
「奴隷が契約文を読む。奴隷が貴族に助言する。奴隷が、男爵家の請求を止める」
バルガスは困ったように眉を下げた。
「秩序には、身分に応じた場所がある。読めることと、語ることは違う」
レイジは黙っていた。
首輪がある。
この部屋で余計な口を利けば、喉を潰される。
監督役が帳簿を抱えて入ってきた。
その後ろに、ノアとマルタが押し込まれる。
ノアは唇を噛んでいた。
マルタは背を丸めている。立っているだけで、膝が震えていた。
バルガスは帳簿を受け取った。
「薬代契約。対象、ノア。残債20万ルク。返済実績、なし」
残債。
まだ消えていない借金。
ノアの肩が跳ねた。
「働いてます」
「働いていることと、返していることは違う」
バルガスは淡々と言った。
「鉱山なら、食費は向こう持ちになる。こちらの管理費も減る。少なくとも、損失は止まる」
損失。
ノアは、人間ではなくなっていた。
帳簿の一行になっていた。
バルガスは次の紙をめくる。
「葬儀費契約。対象、マルタ。残債15万ルク。厨房労働中に二度倒れている。監督報告では、作業能率低下」
マルタは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「歳なもんでね」
「契約に年齢は関係ない」
バルガスは紙を閉じた。
「罰則対象だ。労働不能による契約を守れなかった者。明日から軽罰を入れる」
マルタの指が震えた。
軽罰。
この屋敷では、そう呼ぶらしい。
倒れかけた人間を、さらに倒すことを。
バルガスは最後に、レイジを見た。
「保護契約。対象、レイジ。残債60万ルク。契約秩序を乱す危険あり」
帳簿係が横から紙を差し出す。
そこには赤い印が押されていた。
鉱山候補。
「君は、よく読める」
バルガスは言った。
「だから危ない。読めない者は、まだ秩序に従える。読める者が場所を間違えると、秩序を壊す」
「契約は契約だ、ですか」
声はかすれていた。
首輪が熱を持つ。
バルガスは静かに頷いた。
「そうだ。契約は契約だ」
ノアが小さく息を吸った。
「ぼく、鉱山に行ったら、ミナに薬を――」
「薬代はすでに支払われた」
バルガスは遮った。
「君が妹を思う気持ちは美しい。だが、契約上は関係ない」
ノアの顔から色が抜けた。
マルタが隣で手を伸ばしかけた。
その手は途中で止まる。
誰かを支える余力など、この部屋にはなかった。
レイジは帳簿を見た。
赤い印の横には、鉱山候補、罰則対象、管理費削減という言葉が並んでいた。
そこに金の匂いはなかった。
人を片づける匂いだけがした。
「明朝、鉱山商の馬車が来る」
バルガスは言った。
「ノアは候補。レイジ、君も候補だ。マルタは罰則後に再判定する」
監督役がノアの肩を掴んだ。
ノアは抵抗しなかった。
抵抗すれば首輪が締まると、知っているからだ。
部屋を出る時、ノアが一度だけレイジを見た。
水を差し出した時と同じ目ではなかった。
今は、何かを聞く目だった。
助かるのか。
もう終わりなのか。
レイジは答えなかった。
答えられるものを、まだ持っていなかった。
帳簿部屋に戻されると、監督役は紙束を乱暴に机へ置いた。
「明日の分だ。鉱山候補の台帳を分けておけ」
「俺が?」
「読めるんだろ。男爵さまのお役に立て」
監督役は笑った。
安い笑いだった。
扉が閉まる。
レイジは一人で帳簿を開いた。
鉱山候補の欄には、死亡や逃亡、病気による回収不能まで同じ線で結ばれていた。
同じ赤印が、何度も出てくる。
棚の奥には、薄い紙束が分けて置かれていた。
回収不能。
病気。
逃亡。
死亡。
レイジは全部を読めたわけではない。
だが、同じ印の紙が、同じ棚に捨てるように置かれていることは分かった。
捨てたい紙にも、金額は残っている。
捨てたい紙なら、安く買える。
安く買えるなら、交渉材料になる。
鉱山へ送った者の欄には、回収額がほとんど入っていなかった。
鉱山へ送る費用、管理先を移す手数料、死亡通知。そこまで進めば、最後は回収不能の欄に落ちる。
損失は止まっていない。
ただ、人間が消えているだけだ。
レイジはノアの契約書を引いた。
薬代、20万ルク。
返済実績、なし。
管理費、増加。
鉱山へ送る予定。
次にマルタ。
葬儀費、15万ルク。
厨房労働、あり。
返済計上、なし。
罰則予定。
レイジはしばらく黙って紙を見た。
マルタは働いている。
なのに返済に入っていない。
ノアも働いている。
なのに返済に入っていない。
帳簿の中で、人間は金を生んでいなかった。
金を生む前に、罰と管理費で潰されていた。
首輪が重い。
だが、重さの下で、ひとつだけはっきりした。
バルガスは秩序を信じている。
契約を信じている。
そして、金が好きだ。
なら、そこを突く。
死体は返済しない。
それだけでよかった。




