第5話 契約は男爵にも効く
翌日、屋敷の外が騒がしくなった。
奴隷部屋の外が騒がしい。
馬車の音。甲高い女の声。兵士の足音。
ノアが扉の隙間から外を見て、息を呑んだ。
「リーゼ様だ」
「誰だ」
「下級貴族のお嬢様。屋敷を取られるって」
廊下の向こうで、若い女の声がした。
「借りたのは1000万ルクです。3000万ルクなど、父は――」
「契約は契約です」
穏やかな声が返った。
バルガス男爵。
「あなたの父親は署名しました。後から増やした分、管理費、遅れた分の追加金、書類を作った費用。すべて契約に基づくものです」
レイジは顔を上げた。
1000万が3000万。
昨日見た帳簿と、同じ増やし方だった。
監督役が扉を開けた。
「新入り。帳簿持ちだ。余計な口を利くな」
首輪が熱を持った。
レイジは黙って立った。
通されたのは、男爵家の契約室だった。
長机の向こうに、灰色の服を着た男が座っている。契約官だろう。机の上には分厚い契約書が置かれていた。
その横に、リーゼが立っていた。
青ざめている。
だが、目だけは伏せていなかった。
彼女は、古びた鍵を握りしめていた。
銀の家紋は磨り減り、鍵の柄には何度も触れられた跡がある。
「屋敷を取る前に、契約文の確認を求めます」
リーゼはそう言った。
声は震えていた。
それでも、言い切った。
バルガスは困ったように笑った。
「もちろんです。契約は誰にでも開かれている。読めばよろしい」
バルガスは、穏やかな顔で続けた。
「私は拾ってあげた者にも、同じことを言っています。野垂れ死ぬより、屋敷の床で働く方がましでしょう」
契約官が紙をめくる。
レイジは帳簿を抱えたまま、リーゼの横を通った。
すれ違う一瞬。
彼女の指が、鍵を握りしめすぎて白くなっているのが見えた。
レイジは声を張れない。
奴隷の発言など、握り潰される。
だから、低く言った。
「借りた額じゃない」
リーゼの目が動いた。
「後から増やせる金の上限を、読ませろ」
それだけだった。
監督役が振り返る。
「奴隷が口を挟むな」
首輪が熱くなる前に、レイジは視線を落とした。
契約官も、レイジを見なかった。
奴隷の言葉は、契約室の言葉にならない。
だが、リーゼは一度だけ息を吸った。
「契約官。私の質問として、後から増やせる金の上限欄を読み上げてください」
バルガスの眉がわずかに動いた。
契約官は紙をめくる。
「第7条。遅延時の加算は、最初に借りた金の5割を上限とする」
部屋が静かになった。
リーゼは、契約書の最初の欄を指した。
「最初に借りた金は、父が最初に借りた1000万ルクです」
契約官は頷いた。
「その通りです」
「なら、後から足してよい分は?」
契約官は数字を追った。
「500万ルク」
「合計は?」
「1500万ルク」
リーゼの声はまだ震えていた。
「3000万ルクには、なりません」
バルガスが口を開いた。
「書類を作った費用、管理費、保全費用が――」
「それらも、上限条項に含まれると書かれています」
契約官が先に言った。
バルガスの指が、机の上で一度だけ止まった。
それまで契約書を飾りのように扱っていた男が、初めて紙を睨んだ。
「……契約官。そこは、別の読み方も」
「ありません」
契約官は短く答えた。
契約書の上には、数字が三つ並んでいた。
1000万ルクの元本に、500万ルクの上乗せが足され、紙の上では1500万ルクに膨らんでいた。
そのどこにも、3000万という数字はなかった。
レイジは帳簿を抱えたまま、黙っていた。
契約は絶対だ。
なら、バルガスも逃げられない。
リーゼが机の縁を掴んだ。
「屋敷を取る話を、取り下げてください」
契約官は朱印を手に取った。
「今の請求された金額は、契約で決めた上限を超えています。屋敷を取ることは認められません」
朱印が押された。
乾いた音だった。
リーゼの手から力が抜けた。
古びた鍵が、かすかに鳴った。
ノアが扉の陰で目を見開いていた。
契約が貴族にも効くことを、初めて見た顔だった。
バルガスはゆっくりとレイジを見た。
ただの奴隷を見る目ではなかった。
契約書を読み、数字の異常に気づき、貴族の借金を減らした奴隷。そんな存在を、誰も普通には見ない。
レイジはまだ首輪をつけている。
だが、バルガスの目にはもう、危険な所有物として映っていた。




