第4話 帳簿部屋
前日の記憶は、断片だけが身体に残っていた。
雨の街道で倒れ、空腹のまま兵士に拾われ、この屋敷へ運ばれた。その先にいたのが、バルガス男爵だった。
身体の持ち主だったレイジは、そこで拾われた。
屋敷に連れて行かれ、温かくはないパンと、薄いスープを出された。
それから、男爵本人が現れた。
整った髭。穏やかな声。
悪人の顔ではなかった。
「身元不明者を放置するわけにはいかない。君を一時保護しよう」
バルガスはそう言った。
「これは保護契約だ。寝る場所と食事はこちらで用意する。身分確認にも必要だ。名前を書くだけでいい」
目の前には契約書があり、王国文字が並んでいる。震える手で、誰かがそこへ名前を書かされたのだろう。
そこから先は、かすれている。
久我怜司がこの身体で目覚めた時、契約はすでに成立していた。
翌朝、レイジの借金は30万ルクになっていた。
パン一つ。薄いスープ一椀。一晩の床。
それが、30万ルク。
「契約は契約だ」
バルガスは困ったように眉を下げた。
「君が署名した。ならば守らねばならない。秩序とは、そういうものだ」
そして首輪がついた。
現在に戻ると、レイジは監督役に蹴られて立たされた。
「新入り。帳簿部屋だ」
「帳簿?」
「明日は契約官が来る。男爵さまの台帳を汚すなよ」
監督役は廊下を進みながら、鼻で笑った。
「ありがたく思え。男爵さまは慈悲深い。飯も寝床も、働き口まで与えてくださる」
働き口。
首輪をつけておいて、よく言う。
帳簿部屋は、奴隷部屋よりも冷えていた。
棚。木箱。革紐で縛られた紙束。
部屋の奥まで、契約書と帳簿が積まれている。
監督役が木箱を蹴った。
「新入りと鉱山候補の分は、その箱だ。明日、契約官に見せる」
レイジは箱の中を見た。
農地を差し出した紙。返せなければ畑を取られる契約。小作人一家。支払い遅れ。
冒険者。治療費。装備代。逃亡。
孤児院へ送る費用。未亡人の葬儀費。没落貴族の再建費。
読める。
だから、吐き気がした。
すべての契約書の端に、同じ朱印が押されている。
バルガス男爵家管理印。
善意の証のように置かれたその印が、首輪の数だけ並んでいた。
20万ルクの契約書があった。
薬代。ノアが口にした額と同じだった。
15万ルクの契約書もあった。
葬儀費。マルタが話した額と同じだった。
そして自分の契約書。
保護費用、30万ルク。
そこまでは、昨日見た紙と同じだった。
だが、帳簿の方には別の行が増えていた。
管理費、30万ルク。
合計、60万ルク。
レイジの指先が止まった。
署名した紙では、30万ルクだった。
帳簿に移されると、もう一つ30万ルクが乗っている。
数字の横には、赤い小さな印が押されていた。
増額確認。
その下に、帳簿係の細い字がある。
まだ取れる。
偶然ではない。
ノアの契約書にも、マルタの契約書にも、似た欄がある。元の費用。管理費。送る費用。監督費。紙を移すたび、数字が増えている。
パンや薬や棺の代金が、別の名前をつけられて膨らんでいく。
見覚えがある。
前の世界で、久我怜司は契約書や滞納書類の細かい文字を見る仕事をしていた。
金を貸す側ではない。
返せなくなった人間の書類を、後ろから確認する側だった。
だから知っている。
本当に危ない条件ほど、目立つ場所には書かれない。
借りた金ではなく、名前を変えた費用を積んで、逃げ道を塞ぐ。
だが、それだけではない。
別の帳簿には、赤い印が並んでいた。
欄の端には、死亡や逃亡、病気による回収不能がまとめて書かれていた。
契約は効いていた。首輪は痛み、罰も発動している。
だが、金は戻っていない。
契約で人を罰することと、金を回収することは違う。
レイジは紙束に触れた。
この世界は、紙で人を縛っている。
なら、その紙には、縛った側の名前と印も残る。
明日は契約官が来る。
契約を守れと言うために。
なら、その契約を守らせればいい。
バルガス自身に。
最初の綻びは、もう見えていた。




