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転生したら奴隷にされたのでリーマンショック起こして異世界経済崩壊させます  作者:


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第56話 契約書に名前を書いても

 水場には、朝から列ができていた。


 大きな列ではない。

 怒号もない。

 王城前の貴族たちのような派手さもない。


 子供。

 元奴隷。

 日雇い。

 荷運び。

 食材商の女。

 小さな袋を抱えた老人。


 みんな、喉が渇いていた。


 ノアは椀を並べる。


「水は一人一杯ずつ。飲んだら、次は札の列。粥だけの人は、あっち」


「札って何?」


 少年が聞く。


 ノアは木札を見せた。


「水場札。配給札。仕事場札。なくすと、また聞き直しになるから、服の内側に入れとけ」


「字が読めない」


「札の端に印がある。水はしずくの印。粥は椀の印。仕事場は道具の印」


 少年は木札を握った。


「ここ、殴られない?」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「並び直しはある。殴られはしない」


「本当?」


「本当」


 ノアは水を差し出した。


 少年は、それを一気に飲んだ。


「ゆっくり飲めよ」


「だって」


「分かるけど」


 ノアは苦笑した。


 レイジは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。


 かつて、床に倒れていた自分へ水を差し出した手。

 今は、別の子供へ水を渡している。


 あの時のノアは、自分の分を削って水をくれた。

 今のノアは、列を見て、札を見て、水の残りを見ている。


 救われた子供では終わっていない。

 次の子供を案内する側に回っている。


「ミナの具合は」


 レイジが聞くと、ノアは顔を上げた。


「昨日、少し歩いた」


「そうか」


「まだ走るなって、マルタさんに怒られてた」


「元気そうだな」


「うん」


 ノアは少し笑った。


「薬代の契約も、組み直したから」


「払えるのか」


「払う。仕事場札、俺ももらった」


 ノアは胸元を叩いた。


 そこには、小さな仕事場札が入っていた。


「倉庫の水運び。あと、子供の列の案内」


「似合ってる」


「褒めてる?」


「半分くらい」


 ノアは不満そうにしたが、すぐに次の子へ水を渡した。


 炊き出し場では、マルタが粥をよそっている。


 鍋の横には、食料台帳が置かれていた。

 今日使った豆。

 残りの小麦。

 明日届く薪。

 食材商への支払い予定。


 マルタは字を読むのが遅い。

 それでも、台帳の上に指を置いて確認していた。


「この豆、明日も来るんだね」


 食材商の女が頷く。


「小倉庫が残ったので。保管料も下がりました」


「じゃあ、明日の鍋も薄くしなくていい」


 マルタは嬉しそうに言った。


 その横で、元奴隷の女が再契約書を握っていた。


「これ、本当に名前を書くのかい」


「書くか、言えば書いてもらえるよ」


 マルタが答える。


「怖いね」


「怖いよ」


 マルタは否定しなかった。


「紙に名前を書くのは、怖い」


 女は顔を上げた。


「じゃあ」


「でも、読んでもらいな」


 マルタは粥を椀に入れる。


「この紙には、首輪のことは書いてない。子供の名前もない。返す額と、返す日と、働く場所と、寝る場所が書いてある」


 女は紙を見る。


 読めない文字が並んでいる。


 マルタは王国書記を呼んだ。


「読んでおやり」


 書記が少し慌てて紙を受け取る。


 月に払う額。

 支払い日。

 仕事場。

 住む場所。

 病気の時は三日以内に窓口へ来ること。

 支払いが遅れた時は、仕事場変更と支払い日の相談を先に行うこと。

 家族を担保にしないこと。


 女は聞いていた。


 何度も頷きながら、椀を両手で持っていた。


「名前を書いたら、終わりだと思ってた」


 マルタがぽつりと言った。


 レイジの耳に、その声が届く。


 昔、奴隷屋敷の厨房で聞いた言葉だ。


 契約書に名前を書いたら終わり。

 マルタはそう言っていた。


 それは、間違いではなかった。


 あの世界では、名前を書けば終わりだった。

 読めない紙に名前を書き、首輪をつけられ、罰則欄に落ちるだけだった。


 だが今、目の前の紙には別のものが書かれている。


 返せる額。

 返せる日。

 働ける場所。

 住む場所。


 マルタは女の背中を見る。


「名前を書いても、終わりじゃない契約もあるんだね」


 大きな声ではない。

 誰かに聞かせるための言葉でもない。


 ただ、鍋の湯気の中で落ちた言葉だった。


 レイジは首元に触れた。


 首輪はない。

 紙に縛られた跡だけが、まだ体のどこかに残っている。


 リーゼが再契約窓口から戻ってきた。


「次の二十人分、確認しました。住居は足ります。仕事場が少し足りません」


「足りないなら増やせ」


「倉庫整理と道の補修に回します。王国役人が渋っていますが」


「渋る理由は」


「賃金表を先に出せと言われました」


「出せばいい」


「出します」


 リーゼはすぐに台帳を開いた。


 迷う時間が短くなっている。


 人を救うために祈るのではない。

 何人を、どこへ、いくらで動かすかを書く。


 それがリーゼの仕事になっていた。


 水場で、さっきの少年がもう一度ノアの前に来た。


「これ、妹の分もいい?」


 ノアは少年の手元を見る。


 椀は一つ。

 後ろには、小さな女の子が隠れている。


「妹も並べばもらえる」


「歩くの遅い」


 ノアは少し考え、椀をもう一つ取った。


「じゃあ、一緒に来い。二人分って、俺が書く」


「いいの?」


「嘘だったら、次から一杯な」


 少年は強く頷いた。


 ノアは水を注いだ。


 一杯目。

 二杯目。


 妹が椀を受け取る。


 小さな手が、震えながら水を持つ。


 ノアはその手を見て、それから笑った。


「こぼすなよ」


 レイジはその場を離れなかった。


 ただ、水が渡るところを見ていた。


 最初にこの世界で受け取ったものは、契約書ではない。

 水だった。


 その水が、今は別の子供へ渡っている。


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