第55話 リーゼ、窓口を動かす
王国救済契約に、最初の署名をしたのは王だった。
王国印が押されると、赤い封蝋が紙に沈んだ。
次に財務卿。
手は止まった。
だが、止まっただけだった。
財務卿は署名した。
その横に、レイジ商会の署名。
さらに、窓口を動かす責任者としてリーゼの名。
細い文字ではない。
まっすぐな文字だった。
その日の午後、王都庁舎の空き部屋に、古い机が運び込まれた。
そこへ、新しい板が打ちつけられる。
王国が認めた再契約窓口。
その下に、小さく名前が入った。
窓口を動かす責任者、リーゼ。
リーゼは、看板を見上げている時間を長く取らなかった。
「住居台帳を左へ。食料台帳は窓口の後ろ。仕事場名簿は入口で見せられるようにしてください。小口支払い表は私の机へ」
王国役人たちは、戸惑いながら動いた。
今まで彼らが従っていたのは、財務府の印だった。
今日から、リーゼの指示の横に王国印がある。
それが、彼らを動かしていた。
倉庫では、札が用途ごとに束になっていた。
食料札。
仕事場札。
住居札。
種札。
ノアが木箱の横で札を数えている。
「食料札、三百。仕事場札、二百四十。住居札、八十。種札、百二十」
「仕事場札は場所別に分けて」
リーゼが言う。
「荷運び、修繕、炊き出し、農村手伝い。読めない人には印で分かるようにします」
「分かりました」
ノアは札を抱えて走った。
少し前まで、彼は鉱山送りの通告を待つ側だった。
今は、他の者に行き先を渡す側にいる。
炊き出し場では、マルタが大鍋をかき混ぜていた。
湯気が上がる。
教会の大きな鍋ではない。
飾りも祈りの言葉もない。
だが、粥は入っている。
「熱いよ。急がなくていい」
彼女の手つきは変わらない。
奴隷屋敷の厨房でも、マルタは鍋を見ていた。
今も鍋を見ている。
違うのは、鍋の前に立つ人間を、誰も罰則欄へ送らないことだった。
「マルタさん、豆の鍋は」
「あと少しでできるよ。パンは先に配れる」
「食材商の小倉庫から出しました」
リーゼが言うと、マルタは頷いた。
「よかった。あの倉庫が売られていたら、今日の鍋は薄くなってたね」
「売りませんでした」
「うん。見てたよ」
マルタは、少しだけ笑った。
再契約待ちの名簿には、箱番号八を買った老子爵家の名もあった。
屋敷は売らない。
だが、返す金と日付は書き直す。
窓口の一つでは、元奴隷の男が紙の前で固まっていた。
「名前を書くのか」
「はい」
王国書記が答える。
男の顔がこわばる。
「名前を書いたら、また縛られるんじゃないのか」
隣の机で、リーゼが顔を上げた。
「この紙には、返せる額、返す日、働く場所、住む場所を書きます」
男は紙を見る。
文字は読めない。
リーゼは書記に目を向ける。
「声に出して読んでください」
書記が読み上げる。
月の支払い額。
支払い日。
仕事場。
住居。
病気の時の届け出。
支払いが遅れた時は、罰ではなく再相談。
家族を担保にしないこと。
男は何度も頷いた。
「首輪は」
「つきません」
リーゼが言う。
「家族の名前も、担保に入りません」
男は息を吐いた。
そして、書記の前で自分の名前を言った。
書記が代筆する。
男は、震える指で印を押した。
終わりではない。
そこから、仕事場札が渡される。
住居番号が渡される。
次の支払い日が決まる。
レイジは部屋の入口からそれを見ていた。
表では、王都の商人たちが彼を悪徳金融屋と呼んでいる。
それでいい。
悪徳金融屋の顔で金を集める。
集めた金を、リーゼの帳簿に流す。
その方が、綺麗な言葉よりよく回る。
「レイジさん」
リーゼが近づいてくる。
「王国財務府から、最初の支払い表が届きました」
「見せろ」
リーゼは紙を出した。
兵士に必ず払う給金。
食材商への支払い。
炊き出し費用。
再契約窓口の事務費。
証書返礼の一部延期。
「貴族向けの返礼が後ろに下がっています」
「財務卿は怒っただろ」
「はい」
リーゼは少しだけ真顔で言った。
「でも、兵士の給金が先です。食材商も先です。鍋も、再契約窓口も止めません」
「いい順番だ」
「あなたの商会の管理印が必要です」
レイジは紙を受け取る。
支払い順序表、つまり誰に先に払うかを書いた表。
その一番下に、空欄がある。
レイジ商会確認印。
レイジは印を押した。
乾いた音がした。
王国の金が、初めてレイジの印を通って動く。
王都庁舎の外では、看板の前に人が並んでいる。
王国が認めた再契約窓口。
窓口を動かす責任者、リーゼ。
その名前の下で、紙と札と鍋が動き始めていた。




