第51話 住む場所は売らない
グラント商会の看板に値段がついたあとも、競売は終わらなかった。
紙はまだ残っている。
残っている紙には、倉庫や支店、別邸、商売を続ける権利、税を集める権利、金印管理権、検査台帳、高級サロンの建物使用権まで書かれていた。
読み上げ役の声が少しだけかすれてきた頃、リーゼが手を上げた。
「止めてください」
広間の視線が集まる。
読み上げ役が紙を持ったまま止まった。
「次の品目ですか」
「はい」
リーゼは台の前へ出た。
手には、別台帳がある。
「東区共同住宅二棟。西市場裏、元職人宿。食材商の小倉庫。元奴隷用の仮住まい。これらは競売から外します」
箱番号八を買った老子爵の屋敷も、その束の中にあった。
売れば、帳簿の不足は埋まる。
だが、そこには使用人の寝る部屋と、古い家族の住む棟がつながっていた。
リーゼは、その紙にも同じ印をつけた。
商会席から声が上がる。
「担保に入っている」
「清算対象だ」
「例外を作れば、回収額が減る」
リーゼは、そちらを見た。
「減ります」
広間が静まる。
「ですが、売りません」
レイジは席に座ったまま、リーゼを見ていた。
彼女の声は震えていない。
「売るものは、貴族や商会が余らせていた場所や看板や税の権利です。税を集める権利。支店。商会の看板。教会の別邸。鑑定院の金印管理権。高級サロン。貴族金融街の建物」
リーゼは別台帳を開く。
「守るものは、住む場所。食料。仕事場。小さな借金を返せる形にした契約です」
「甘い」
誰かが言った。
「清算に甘さを入れれば、また焦げつく」
リーゼは頷いた。
「だから、ただ外すのではありません。再契約へ回します」
ノアが、広間の外から数枚の札を持ってきた。
ノアが持ってきた札には、住居、仕事場、再契約窓口の番号が書かれていた。
その後ろに、数人の男と女がいる。
元奴隷。
日雇い。
食材商。
小さな子供を抱いた母親。
彼らは、台の上に立つ者ではない。
売られる者でもない。
再契約窓口へ案内される者たちだ。
マルタが外から声をかける。
「粥、次の鍋ができたよ」
広間の者たちが、少しだけ息を吐いた。
レイジは席を立った。
「東区共同住宅二棟」
読み上げ役が紙を渡す。
レイジは額を見た。
「担保評価、180万ルク」
商会席が身を乗り出す。
「買う」
広間がまたざわつく。
レイジは続けた。
「ただし、競売ではない。まとめて買い取る。再契約へ回す」
リーゼがすぐに別紙を出した。
「居住者ごとに、月額を組み直します。払える額、払える日、仕事場を確認します。滞納時は追い出しではなく、仕事場変更と支払い日の調整を先にします」
レイジはリーゼを見た。
「だから、売るものと守るものを分けさせている」
レイジは、紙に署名した。
リーゼは少しだけ息を吐いた。
「レイジ様」
「何だ」
「住む場所まで売れば、あなたが倒した人たちと同じになります」
レイジは、少し間を置いた。
広間の端で、バルガスがこちらを見ている。
教会の司祭も、鑑定院の役人も、カシアンも。
売ればいい。
全部売れば、数字は増える。
帳簿の不足は埋まる。
だが、それでは、人を食わせる帳簿ではなく、人から奪う帳簿になる。
バルガスの帳簿と同じだ。
上から下へ落とす紙になる。
レイジは、机の上にある別台帳を見た。
住む場所と仕事場、今日払う小口の金が、同じ紙の上でつながっている。
鍋や仕事場や住む場所を残すための紙。
「続けろ」
レイジは言った。
リーゼは頷いた。
「では、続けます」
東区共同住宅、西市場裏の元職人宿、食材商の小倉庫、元奴隷用の仮住まいには、競売札ではなく別の印がついた。
箱番号八の老子爵家の屋敷にも、同じ印がついた。
レイジは、その一束をまとめて買い取った。
高くはない。
安く買い叩くわけでもない。
清算記録に、別の印が押される。
再契約行き。
外の窓口では、すでに人が詰まり始めていた。
「名前を書けないんだ」
片腕を布で吊った男が、紙の前で固まっている。
ノアが椅子を引いた。
「読んでもらう列はこっち。名前は、言えば書いてくれるって」
「それでも契約になるのか」
「声に出して読んで、本人が頷けばいいって。リーゼさんが言ってた」
男は、まだ不安そうだった。
ノアは水を差し出した。
「先に飲んで。喉が乾いてると、返事もしにくいから」
別の窓口では、食材商の女が小さな帳面を握りしめていた。
「小倉庫がなくなると、豆を置けません。鍋も、三日で止まります」
リーゼはすぐに台帳をめくった。
「小倉庫は再契約へ回します。納品表も一緒に出してください。保管料は下げます。その代わり、炊き出し分を先に確保してください」
「売られないんですか」
「売りません。豆を置く場所は、鍋と同じです」
女は、帳面を胸に抱いた。
ノアが番号札を配る。
「こっち。水を飲んでからでいいよ。名前を言えない人は、仕事場の人に一緒に来てもらって」
小さな子供が、札を受け取る。
「ここに並べば、追い出されない?」
ノアは少し考えてから答えた。
「話を聞いてから。すぐ追い出す場所じゃない」
子供は頷いた。
ノアは水を渡した。
かつて、レイジに水を渡した手だ。
その手は今、別の子供に水を差し出していた。
外では、マルタが粥をよそっていた。
「熱いから、ゆっくりお食べ」
彼女の鍋は、今日も止まっていない。
教会の別邸も鑑定院の金印管理権も売られ、グラント商会の看板には値段がつき、バルガス家の税を集める権利も落札された。
それでも鍋と水は残り、仕事場札は配られ、寝る部屋は競売台から下ろされた。
夕方、大広間の扉が開いた。
財務卿の使いが、二人の王城兵を連れて戻ってきた。
広間が静まる。
使いはレイジの前まで来た。
「レイジ殿」
声が硬い。
「王城より、出頭の求めです」
リーゼがレイジを見る。
「理由は」
レイジが聞いた。
使いは、一度だけ唾を飲んだ。
「本日の清算に、王国関係資金が含まれている件について。財務卿閣下が、説明を求めておられます」
広間の者たちの顔から、余裕が消えた。
王国関係資金。
箱番号十二。
財務卿の署名入り記録。
まだ台の上には出していない紙だ。
レイジは机の上を見た。
机の上には、販売台帳と箱番号、教会購入記録、王立鑑定院の金印記録、グラント商会の説明文言が残っている。王国支援証書関連記録の下には、財務卿の署名が入った紙も挟まっていた。
まだ使っていない紙がある。
レイジは、それを束ねた。
「分かった」
リーゼが別台帳を閉じる。
「こちらは続けます」
「ああ。住む場所は売るな」
「売りません」
ノアが、再契約窓口へ人を案内している。
マルタの鍋から、湯気が上がっている。
広間の中央では、競売台に残った紙と鍵がまだ並んでいた。
売られたのは、人ではない。
貴族や商会が持っていた権利だった。
そして今、王城がその清算を見過ごせなくなった。
レイジは、財務卿の署名入り記録を持ち上げた。
まだ、王国に条件を突きつけたわけではない。
だが、王国の金が同じ箱に触れていたことだけは、もう隠せない。
レイジは呼び出し状を帳簿の上に置いた。
その横には、今日落札された清算記録が積まれている。
一番上には、まだ台の上に出していない紙があった。
王国財務府の署名と印が入った紙。
その朱印は、まだ乾ききっていなかった。




