第50話 読んだ上で売った若君
グラント商会の名前が呼ばれた時、広間から笑いは消えた。
バルガスの時とは違う。
カシアン・グラントは、ただの見栄張りではない。
王都最大商会の若き後継者。
契約書を読ませる男。
危ない橋を、危ないと分かったうえで渡る男。
だからこそ、ここまで来た。
読み上げ役が紙を開く。
「グラント商会、南支店で商売を続ける権利。開始額、300万ルク」
「同、東倉庫使用権。開始額、220万ルク」
「同、貴族金融街販売窓口使用権。開始額、180万ルク」
「同、商会の名前を、支店の看板に出して商売する権利の一部。開始額、500万ルク」
広間がざわめいた。
看板。
グラント商会の名を掲げる権利。
それに値段がついた。
カシアンはゆっくり立ち上がった。
椅子は用意されていた。
だが、座らなかった。
顔は白い。
それでも背筋は崩れていない。
レイジは、その姿を見て少しだけ感心した。
無能ではない。
最後まで、自分の言葉で逃げ道を探している。
「異議があります」
声は乱れていない。
「木箱商品の説明書には、危険が明記されています。返礼が遅れる場合があること。元本を保証しないこと。箱の中の契約ごとに返済時期が違うこと。購入者はすべて確認印を押している」
彼は読み上げ役ではなく、広間の全員に向けて話した。
「王立鑑定院の金印も、損失保証ではない。形式確認です。教会の購入も、保証ではない。買った者たちも、それを確認した」
何人かの貴族が気まずそうに目を伏せた。
カシアンの言い分には理屈がある。
危険は書かれていた。
買った者も確認印を押した。
金印は保証ではない。
教会の購入記録も保証ではない。
それだけなら、逃げ道はあった。
レイジは席を立たなかった。
ただ、机の上の紙を一枚、読み上げ役へ渡す。
読み上げ役が受け取った。
「グラント商会、販売台帳」
カシアンの目がわずかに動く。
「箱番号五。購入者、ハーゼン伯爵家。説明担当者、グラント商会貴族窓口。説明文言」
読み上げ役は、そこだけゆっくり読んだ。
「鉱山権の損を、長く戻る契約収入で埋められます」
広間が揺れた。
別の紙。
「箱番号七。購入者、聖白教会投資部門。説明文言」
「王立鑑定院の金印があり、複数契約に分けているため、一つの鉱山だけに頼るより失敗しにくく見える」
教会席が固まる。
さらに紙。
「箱番号十五。購入者、下級貴族五名。説明時に教会購入記録を提示」
「箱番号十二。購入者名簿の一部、王国関係資金。説明担当者、グラント商会。確認印、カシアン・グラント」
財務卿の使いが、出口で立ち止まった。
逃げるには、少し遅かった。
カシアンは口を開く。
「それは、販売担当者が」
読み上げ役が次の紙を出す。
「販売文言確認欄。カシアン・グラント確認印」
「……」
「危険説明確認欄。カシアン・グラント確認印」
「……」
「教会購入記録提示許可欄。カシアン・グラント確認印」
「……」
「王立鑑定院金印の使用文言確認欄。カシアン・グラント確認印」
広間はもう、ざわめかなかった。
静かだった。
紙の音だけがした。
レイジは、ようやく口を開いた。
「読まなかった者が悪い」
カシアンがレイジを見る。
「君が、そう言っていた」
カシアンの目が細くなる。
「私は読んでいた」
「そうだな」
レイジは頷いた。
「だから、終わる」
カシアンの指が震えた。
レイジは続ける。
「読めなかったからじゃない。読まなかったからでもない。読んだ上で売った。危ないと分かった上で、金印を見せた。教会購入記録を見せた。鉱山権の損を取り戻せると言った。複数の契約に分けているから失敗しにくく見えると言った。確認印も押した」
読み上げ役が紙を重ねていく。
販売台帳。
箱番号。
購入者名。
説明担当者。
説明文言。
確認印。
教会購入記録を見せた記録。
金印を売り文句に使った記録。
どれも、カシアンが得意だったものだ。
契約書も説明書も注意書きも確認印も、カシアンが得意にしてきたものだった。
弱者に向けていた刃が、今は商会の看板へ向いている。
カシアンは息を吐いた。
「買った者も、確認した」
「売った者も、確認した」
レイジは短く返した。
「君は買い手じゃない。売り手だ」
その一言で、カシアンの顔から最後の余裕が消えた。
リーゼ家再建サロンでは、危険を読んだ上で署名した。
王国支援証書では、買う側ではなく売る側に回った。
白鷲銀行では、自分だけ逃げようとして見られた。
魔石鉱山権では、担保を取る側に回った。
木箱商品では、損を取り返したい貴族に安心を売った。
返礼が止まると、説明書に書いてあると逃げた。
そして今、その全部が紙になって戻ってきた。
読み上げ役が、競売品目を読む。
「グラント商会、南支店で商売を続ける権利。札、350万ルク」
札が上がる。
「400万ルク」
「東倉庫使用権。札、260万ルク」
「貴族金融街販売窓口。札、300万ルク」
一つずつ、グラント商会の場所が切り取られていく。
カシアンは立ったままだった。
座れば負けると思っているのかもしれない。
あるいは、まだ立っていられる自分を確認しているのかもしれない。
読み上げ役が最後の紙を持ち上げた。
「グラント商会、看板を出して商売する権利の一部。開始額、500万ルク」
広間が完全に静まった。
看板とは、名前だ。
看板とは、支店の扉に掲げられ、契約書に押され、貴族が信用した名前だった。
それが、競売台に置かれた。
カシアンが一歩前に出る。
「その看板は、父の代から」
「担保に入っている」
レイジは言った。
「読んだか」
カシアンは答えなかった。
読んでいたはずだ。
彼は読める。
だから、逃げられない。
札が上がった。
「600万ルク」
別の札。
「750万ルク」
カシアンの喉が動く。
「900万ルク」
木槌が鳴った。
「グラント商会、看板を出して商売する権利の一部、落札」
その音は、花が腐った時より静かだった。
銀行前の列よりも静かだった。
貴族金融街の扉が閉まった時よりも静かだった。
だが、カシアンには一番重かった。
グラント商会の大きな看板が、台の上に置かれる。
昨日まで人を集めた名前。
紙を安心に見せた名前。
読まなかった者が悪いと言ってきた名前。
その名前にも、値札がついた。
カシアンは、それを見ていた。
カシアンは、もう反論しなかった。
ただ、自分の右手を見た。
あの手で、説明済みの確認印を押してきた。
あの手で、売る側に回った。
そして、その手をゆっくり下ろした。
レイジは笑わなかった。
これは復讐ではある。
だが、それ以上に清算だった。
読んだ上で売った者が、読んだ紙で縛られる。
ただ、それだけのことだった。




