第46話 上だけ燃える
夕方の貴族金融街は、朝より暗かった。
魔灯はついている。
石畳も磨かれている。
馬車も走っている。
だが、扉が閉まっていた。
投資サロンは本日の受付終了。
高級商会は新規相談停止。
銀行の奥の奥の部屋は面会不可。
王立鑑定院は、金印は保証ではないと同じ説明を繰り返している。
聖白教会の投資窓口は、信徒の財産を守るため返礼を延ばすと書類を出した。
守る、確認する、延期する。どの扉にも、きれいな言葉で書かれた紙が貼られていた。
きれいな言葉ほど、扉を閉める時によく使われる。
グラント商会では、販売台帳の写しが次々に取られていた。
書記は購入者名の横に箱番号と口数を書き、説明担当者と説明文言を写す。教会購入記録提示済み。王立鑑定院金印確認済み。最後に、カシアン・グラントの確認印まで写された。
羽根ペンが走る音が止まらない。
販売台帳の写しが、一枚ずつ増えていく。
その音を、カシアンは奥の部屋で聞いていた。
彼はまだ命令を出している。
事務員を動かし、説明書を揃え、契約上の文言を確認させている。
倒れてはいない。
だが、商会の外では別の言葉が増えていた。
売った時の言葉。前に置いた金印。教会を使った安心。買い手に押させた確認。
王立鑑定院では、鑑定官たちが金印記録を見直していた。
箱番号一、二、五、七、八、十二。どの記録にも、契約書の枚数と署名、返せない時に取るものの記録はある。
だが、保証とは書いていない。
しかし販売会場では、金印が前に置かれていた。
説明書の小さい字より大きく見せられていた。
貴族たちは、そこを見た。
鑑定院は責任から逃げようとしている。
だが、金印がどこでどう使われたかは、販売台帳に残っていた。
聖白教会も同じだった。
教会は、自分たちも損をした側だと言いたがっていた。
「信徒の財産を守るためです」
「長く見れば安全です」
「購入は推薦を意味しません」
だが、販売会場には教会の購入記録が置かれていた。箱番号七を三口、聖白教会が買っている。その写しを見て、貴族は安心した。
その安心で署名した。
その署名が、今は教会の白い袖を掴もうとしている。
王城では、財務卿が箱番号十二の確認書類を見ていた。
王国の支払い予定表が広げられている。
財務卿の前には、兵士の給料、橋の修理費、冬前の麦の買い入れが並んでいた。
どれも、後回しにすれば王国の足元が揺れる支払いだった。
その横に、箱番号十二の確認書類が置かれていた。
白鷲銀行に預けた王国の金。
グラント商会が売った箱。
返礼延期。
財務卿の指が、兵士の給料の欄で止まった。
「これは、商会だけの失敗では済まない」
庶民が同じ目に遭えば、自分で選んだのが悪いと言う。
貴族が遭えば、社交問題。
教会が遭えば、信徒保護。
王国の金が混じれば、国家問題。
言葉は違っても、どれも金を払う日や責任を先に延ばす紙だった。
その頃、王都裏通りでは鍋が開いていた。
マルタの鍋から、豆と麦と塩と干し魚の匂いが混じった湯気が上がる。
薄くはない。
豪華でもない。
だが、腹に入る。
ノアは水を配っていた。
「こっちは子供と老人。仕事場札を持ってる人は、先にあっちで確認して」
小さな子供が札を握る。
元奴隷が仕事場の列へ行く。
粉まみれの男が、半日分の給料を受け取って頭を下げる。
再契約窓口では、紙が作られていた。
返せる額と返せる日を書き、働ける場所を確かめる。家族は担保にしない。病気だけでは罰しない。嘘をついた時だけ罰則にする。
大きな金印はない。
美しい布もない。
だが、窓口は開いている。
リーゼは住居の台帳を見ていた。
「この三部屋は子供連れを先に。雨漏りする部屋は今日中に修理職人を入れてください。職人への支払いは先払い半分、完了後半分」
「貴族家の屋敷修理依頼が来ています」
「後ろへ」
「急ぎだと」
「こちらも急ぎです」
リーゼは顔を上げなかった。
「人が寝る部屋を先にします」
ノアが戻ってきた。
「水、あと二桶」
「水運びに仕事場札を二枚追加してください」
「うん」
「ミナは?」
「マルタさんのところ。椀を拭いてる」
「重いものは?」
「持ってない」
リーゼは小さく頷いた。
レイジは、事務所の隅で二つの台帳を見ていた。
一つは、貴族金融街から戻ってきた紙の束だ。販売台帳の端には、箱番号七と十二が何度も出てくる。教会の購入記録、王立鑑定院の金印記録、グラント商会の説明文言。閉じられた投資サロンの返礼停止記録と、聖白教会の延期通知まで、もう同じ束から離れなかった。
もう一つは、リーゼの別台帳だった。空き部屋の数、食料倉庫の残り、今日出せる仕事、小口支払いの順番、再契約窓口に並ぶ名前、明日の朝に村へ出す種。配給札と仕事場札の枚数は、ノアの字で端に書き足されている。
どちらも紙を使っている。
だが、使い方が違う。
片方は、貴族や商会のために積まれた紙だ。印を増やし、布をかけ、箱に入れ、安心そうに見せて売った紙。
もう片方は、鍋、仕事場、寝る部屋、畑、明日の水を止めないための紙だ。
リーゼが横に来た。
「貴族街は」
「閉まっている」
「こちらは開けます」
「ああ」
レイジは短く答えた。
外では、炊き出しの列がゆっくり進む。
誰かが怒鳴ることもない。
押し合うこともない。
ノアが水を渡す。
マルタが椀を渡す。
リーゼが支払い順を直す。
貴族金融街では、扉が閉まっていた。
裏通りでは、鍋と仕事場が動いていた。
貴族金融街の窓口は止まっている。だが、裏通りの鍋と仕事場は動いている。
グラント商会の販売窓口は、その日の夕方に閉じた。
看板はまだ落ちていない。
だが、その下に並ぶ客はいなかった。
今のところは。
レイジは、机の上の紙を整えた。
販売台帳の上に箱番号の写しを重ね、その横へ教会購入記録と王立鑑定院の金印記録を置く。グラント商会の説明文言、返礼停止記録、白鷲銀行の貸付先一覧、貴族金融街の閉鎖通知。紙は多い。だが、どれも最後は、売った者と、その裏にある倉庫へつながっていた。
その端に、小さな鉄の鍵を置く。
グラント商会の倉庫印が刻まれた鍵だった。
まだ使わない。
まだ扉は開けない。
だが、紙を売った者には、紙以外のものがある。
次に確認するのは、この鍵で開く場所だった。
窓の外で、貴族金融街の魔灯が一つ消えた。
炊き出し場の鍋は、まだ湯気を立てていた。




