第43話 貴族金融街の扉が閉まる
昼になる前に、貴族金融街では、開いていた扉が一つずつ閉まり始めた。
最初に聞こえたのは、鍵をかける音だった。
投資サロンの扉が、内側から閉められた。
いつもなら、昼前には香茶の匂いが通りへ漏れている。
宝石のついた杖を持つ貴族が入り、商人が頭を下げ、若い事務員が銀の盆を運ぶ。
今日は違った。
扉の前に、札が出ていた。
本日の相談受付は終了しました。
返礼の確認は、書類でお願いします。
まだ昼にもなっていない。
貴族家の連絡役が扉を叩く。
「主人が箱番号七の返礼を確認したいと言っています」
中から、くぐもった声が返った。
「担当者不在です」
「朝も同じ返事でした」
「担当者不在です」
同じ言葉だけが戻った。
高級商会の相談窓口では、予約札が裏返されていた。
扉には、新規相談停止、返礼確認は順番に対応、契約書をお持ちくださいという札が貼られていた。
銀行の奥の奥の部屋では、面会が断られた。
「頭取は会議中です」
「では幹部を」
「幹部も会議中です」
「では誰が答える」
「書類でお願いします」
書類。
その一言で、連絡役の顔が歪んだ。
今、皆が困っているのは、その書類だった。
一番人が止まっていたのは、王立鑑定院の前だった。
箱を抱えた従者。
説明書を持つ貴族の代理人。
金印の写しを握る商人。
鑑定院の石扉は開いている。
だが、中へ入れる人数は絞られていた。
受付の鑑定官が、同じ言葉を繰り返す。
「王立鑑定院は、損を埋める約束はしていません」
「なら、この金印は何だ」
連絡役が説明書を突きつけた。
鑑定官は、箱の蓋を軽く叩いた。
「申し込みでは、契約書は十枚。中にも十枚ありました。署名もありました。箱番号も合っていました」
「それだけか」
「それだけです」
「中の借り主が払えるかは、見ていないのか」
鑑定官はすぐには答えなかった。
列に並んでいた連絡役たちが、互いに顔を見合わせた。
別の連絡役が箱を持ち上げた。
青い布と白い紐、金印は、まだ美しく見えた。
箱の正面で、金印だけが光っている。
「この印は、布の上に押されていた。説明書の一番上にもあった。販売台の中央にもあった。小さな注意書きより、ずっと大きく」
「こちらでは、見せ方までは管理していません」
「押したのはそちらだ」
「確認の印です」
「なら、ただ数を見ただけの印を、なぜ金で押した」
その言葉に、列が静まった。
金印は大きい。
注意書きは小さい。
その差を、今になって誰もが見ていた。
別の連絡役が言った。
「グラント商会の説明では、王立鑑定院確認済みと聞いた」
「確認は事実です」
「保証ではないと聞いた覚えはない」
「説明書には記載があります」
「売る時は、説明書より先にこの印を見せられた」
鑑定官は唇を結んだ。
聖白教会の投資窓口も扉を半分閉めていた。
白い袖の職員が、柔らかい声で告げる。
「信徒の財産を守るため、返礼確認を延期いたします」
「守るために、払わないのか」
「長く見れば安全な運用です」
「教会も買ったから安全だと聞いた」
「教会は信徒の財産を分けて管理しております」
「その記録を、グラント商会が見せた」
職員の口が止まった。
貴族たちは、説明書を読み返した。
返礼が遅れる可能性あり。
箱の中の契約が返されない場合、予定返礼が変わることがあります。
王立鑑定院の確認は損を埋める約束を意味しない。
教会購入記録は推薦を意味しない。
小さい字だった。
ある老貴族が、震える指でその欄を叩いた。
「なぜ、売る時にここを大きく読ませなかった」
誰も答えなかった。
売る時に大きく見せられたのは、別のものだった。
金印もグラント商会の看板も、教会購入記録も美しい布も、返礼予定表も、安心に見せるための道具だった。
貴族金融街の中央通りには、馬車が詰まり始めた。
だが、銀行前のような群衆にはならない。
叫べば、自分が損をしたと知られる。
自分で押しかければ、家に金が足りないと周りに知られる。
だから、彼らは連絡役を出す。
手紙を送る。
扉の前で待たせる。
そして、戻される。
戻された連絡役が、また別の扉へ向かう。
投資サロン、高級商会、銀行の奥の奥の部屋、鑑定院、教会の投資窓口、グラント商会。貴族金融街の奥から順に、扉が止まり始めていた。
順番に、扉が閉まっていく。
王城にも、昼過ぎに一通の確認書類が届いた。
箱番号十二。
返礼予定、延期。
王国の金を管理する部署の職員は、最初それをただの事務遅れとして処理しようとした。
だが、添付された記録を見て手を止めた。
兵士の給料、橋の修理費、冬前の麦の買い入れ。そのどれも、王国の金で払う予定だった。
王国の支払い予定表の横に、箱番号十二の確認書類が置かれている。
白鷲銀行に預けた王国の金は、グラント商会が売った箱と、王立鑑定院の金印、聖白教会の購入記録へつながっていた。
職員の顔から血の気が引いた。
「財務卿へ」
「今すぐですか」
「今すぐだ」
その声は、貴族金融街の閉じた扉より低かった。
夕方前、中央通りから香茶の匂いは消えていた。
代わりに、紙を握る連絡役が立っていた。
普段開いているはずの扉が、いくつも閉まっている。
金印は、まだ説明書の上で光っている。
だが、その光を見て安心する者は、もう少なかった。




