第41話 リーゼの別帳簿
王都の貴族街に、箱が増えた。
深い青の布で包まれた箱は、奥の部屋の棚に置かれ、書斎の机に運ばれ、夜会前の控え室や馬車の中でも開かれた。白い紐と金印と箱番号が見えるだけで、誰もが少し安心した顔をする。
「鉱山権より安全そうらしい」
「教会も持っている」
「グラント商会が扱っているなら、完全な危険物ではないでしょう」
「鑑定院の金印もある」
会話は、箱の中身ではなく外側を撫でていた。
誰も、赤札の紙を取り出さない。
誰も、遅延の欄を大きな声で読まない。
誰も、自分が損を取り返したいだけだとは言わない。
箱は飾られた。
損失は、布に包まれた。
まだ何も止まっていない。
返礼予定日は先だ。
販売会場は開いている。
貴族街の馬車も走っている。
教会の鐘も鳴っている。
だが、王都の棚には、返せない借金が静かに置かれ始めていた。
その頃、リーゼは別の帳簿を作っていた。
場所は、王都裏通りの古い事務所だった。
壁には倉庫札が掛けられている。
机の上にあるのは、布で包まれた箱ではなく、使い古した木札だった。
リーゼはまず、空き部屋の数を書いた。元奴隷が入れる部屋、日雇いが寝られる部屋、子供連れを先に通す部屋。扉のない部屋には印をつけない。
次に、食料倉庫の番号を写す。一番倉庫には小麦、二番倉庫には豆、三番倉庫には塩と固いパン。干し魚の追加分と、買い足した大鍋二つにも線を引いた。
最後に、種の欄を作る。春撒きの麦、豆、芋。袋の数だけでなく、どの農村へどの荷馬車で送るかまで書いた。
まだ空いている欄が一つだけ残った。
ノアが指で示す。
「ここ、まだ書いてない」
「受け取った人が印を押すところです」
リーゼが言った。
「押してなかったら?」
「届いたと言えません」
マルタが横から言った。
「届いたと言えない種は、次の鍋に数えちゃ駄目だよ」
ノアは空欄のある札を見て、別の山へ移した。
「じゃあ、これはまだ倉庫の分」
「そうです」
リーゼは頷いた。
すぐには食べられない。
だが、これがなければ次の季節に鍋が薄くなる。
仕事場の欄には、荷運びや炊き出し、倉庫整理、粉挽き補助、修繕手伝いの名が増えていく。小口資金の頁には、一日分の前払い、道具代、薬代、粉代、薪代が書き込まれた。
再契約窓口の頁だけは、リーゼが何度も見直した。返す日。返済額。家族を差し出さないこと。嘘をついた時だけ罰則にすること。
ノアは横で、配給札と倉庫札と仕事場札を分けていた。種札だけは、リーゼに確認してから別の山へ移す。
「これは、明日の分?」
「明日の朝です」
リーゼが答える。
「こっちは?」
「仕事場札。荷馬車の親方に渡してください。小麦袋を運ぶ人を五人」
「五人」
ノアは木札に炭で数字を書いた。
その横に、六と書きかけた札があった。
マルタが豆袋を抱えたまま、ちらりと見る。
「一人多いね」
ノアは慌てて札を見直した。
「え、あ、ほんとだ」
「一人多いと、粥が一人分減るよ」
「一人少ないと?」
「小麦が一袋、雨に濡れる」
ノアは真剣な顔になった。
「じゃあ、五人」
「そう。鍋も札も、数が命だよ」
マルタはそう言って、豆袋を奥へ運んだ。
リーゼは少しだけ笑った。
「間違えたら、鍋が遅れます」
「うん。間違えない」
ノアは六と書きかけた札を削り、五と書き直した。
字は前よりまっすぐだった。
マルタは奥で豆を見ていた。
袋を開ける。
匂いを嗅ぐ。
指で硬さを見る。
塩の量を確かめる。
パンを割り、古さを見る。
「この豆は夜から水につける。こっちは明後日。塩は使いすぎると足りなくなるよ。老人には柔らかい方を先に出す」
彼女の声に、若い女たちが頷いた。
元奴隷もいた。
日雇いの妻もいた。
教会の列から移ってきた者もいた。
マルタは泣かない。
祈らない。
鍋を見る。
それが、今は一番強かった。
リーゼは帳簿に支払い順を書いた。
粉屋。
豆屋。
薪屋。
荷馬車。
日雇い。
薬屋。
住居の修繕職人。
種の運び手。
支払いを一日間違えると、食べ物が止まる。
仕事場が止まる。
人が戻る場所を失う。
種が遅れると、次の季節の畑が空になる。
だから、こちらの帳簿は箱に入れない。
リーゼはふと、作業場で見た木箱を思い出した。
札は青、黄、赤に分けられた。
蓋を閉じると、同じ箱に見えた。
美しい布をかけると、さらに見えなくなった。
金印が押されると、人は安心した顔をした。
あれは怖い。
そう思う。
だが、怖いと言うだけでは、鍋は出ない。
住む場所も増えない。
仕事も渡せない。
畑に種も撒けない。
リーゼは新しい記録帳を開いた。
貴族街。
粉屋。
荷馬車。
日雇い。
炊き出し。
そのうち、粉屋から下に太い線を引く。
ノアが覗き込んだ。
「線、引くの?」
「ここから下は、貴族の箱と混ぜません」
「なんで?」
「貴族の箱が止まっても、粉屋への支払いは止めないためです」
マルタが鍋の蓋を閉めながら言った。
「粉屋が止まると、粥が止まるからね」
ノアは線の下に、粉屋、ともう一度書いた。
さっきより大きな字だった。
馬車職人の支払いが遅れても、炊き出し用の荷馬車は動くようにする。
銀行の大口が詰まっても、日雇いの小口支払いは先に出す。
元奴隷の再契約は、貴族の返礼予定と混ぜない。
種の配布は、貴族の夜会費と同じ束に置かない。
紙は分ける。
人は箱に入れない。
夕方、レイジが事務所に来た。
彼の外套には、王立鑑定院の石粉が少しついていた。
手には、販売台帳の写しがある。
リーゼは記録帳を見せた。
「住居を十五、仕事場を四つ、小口資金の窓口を二つ増やします。倉庫の小麦は三日ではなく七日に伸ばせます。荷馬車は朝一番を炊き出し用に固定しました。種は農村ごとに、受け取った印を取ります」
レイジは記録帳を見た。
「金は」
箱を作るたびに整理手数料が入り、リーゼ家の名簿を使って売れた分には販売協力分が入る。
「箱の整理手数料と、リーゼ家に入る販売協力分から回してください」
リーゼは言った。
声は静かだった。
「こちらの帳簿は、人を箱に入れません」
レイジは少しだけ彼女を見た。
それから、否定せずに頷いた。
「分かった」
机の上に、二種類の紙が並んだ。
レイジの紙には、箱番号と購入者名と確認印が残っている。誰がどの箱を買い、誰がどんな言葉で売ったのか、逃げ道を塞ぐための紙だった。教会の購入記録も、カシアンの確認印も、その同じ束に挟まっている。
リーゼの紙には、空き部屋と仕事場、配給札の数が書かれていた。誰をどこへ寝かせ、明日どの鍋を動かし、どの村へ種を送るのかを決めるための紙だった。
どちらも帳簿だった。
どちらも人を動かす。
だが、向いている先が違った。
夜、王都の貴族街には灯りがともった。
青白い魔灯の下で、美しい箱が棚に置かれている。
金印が光る。
布が光る。
箱番号が光る。
その中には、返せない借金が入っている。
レイジの机では、販売記録が少しずつ厚くなっていた。教会が買い、グラント商会が売り、金印で飾られ、カシアンの印まで押された箱が、同じ束の中で増えていく。棚の上では、どれも同じようにきれいな布で包まれていた。
棚に置かれた箱の数だけ、誰かが安心した顔をした。
その箱の数だけ、誰かの赤札が蓋の下に沈んだ。
その箱の数だけ、販売台帳に名前と印が残った。
紙は静かだった。
静かなまま、王都中へ広がっていく。
箱の蓋は、まだ開かれていない。




