第36話 止まる屋敷
王都の夜は、明るくなった。
鉱山権で儲けた者たちは、屋敷の門に魔灯を増やした。
青白い灯りが、石壁を照らす。
新しい看板も増えた。
魔石収入相談。
鉱山権を預けて借りた金。
屋敷改装前払い。
夜会用馬車、予約受付中。
石工は朝から壁を積み、馬車職人は夜まで車輪を磨いた。
布屋は新しい夜会服の注文を受け、料理人は鉱山権祝いの宴の献立を作った。
誰も、採掘坑の中を見ていない。
それでも、王都は未来を買った顔をしていた。
北灰鉱山権。
1000万ルク。
値札板の前で、貴族たちは笑った。
「最初に買った者は十倍だ」
「今からでも遅くない。王国の魔石需要は増える一方だ」
「借りてでも買うべきだったな」
「今から借りればいい」
その会話のそばで、グラント商会の書記が申込書を配っていた。
返せなかった時に取るもの、魔石鉱山権。
今の値段、1000万ルク。
借りられる金額、700万ルク。
紙の上では、未来は太っていた。
バルガス男爵も、その未来の中にいた。
彼の屋敷では、腐った珍花の匂いはもう消えている。
だが、客の記憶からは消えていない。
だから彼は、屋敷の門を直そうとしていた。
新しい馬車も注文した。
夜会への復帰も考えていた。
「北灰を三口まで増やす」
バルガスは執事に言った。
「今なら、前の二口を返せなかった時のために借りられる。値が上がっているうちに、持ち分を増やす」
「支払い日は」
「採掘収入が入れば問題ない」
執事は、それ以上言わなかった。
値段は、その日初めて揺れたわけではない。
前日から、売りたい者は増えていた。
ただ、誰も「下がる」と言いたがらなかった。
その日の昼、王城から布告が出た。
新鉱脈発見。
王国北東部、黒嶺山脈の奥で、大規模な魔石鉱脈が確認された。
さらに、王国直轄鉱山の一部を民間工房へ開放する準備に入る。
布告の文面は明るかった。
王国の魔石供給は安定する。
工房炉の燃料不足は改善する。
軍需にも余裕が出る。
冷蔵倉庫や治療院への供給も増える見込み。
良い知らせだった。
魔石を使う者にとっては。
取引所の値札板の前で、最初に黙ったのは工房主だった。
彼は手元の計算板を見た。
魔石の供給が増える。
それはいい。
炉を止めずに済む。
仕入れ価格も下がるかもしれない。
だが、北灰鉱山権を1000万ルクで買う理由は薄くなる。
次に黙ったのは、権利だけを持つ貴族だった。
「……供給が増えるなら、北灰でなくてもよいのか」
誰かが言った。
値札板の前で、買い注文が消えた。
売り注文が残った。
1000万ルク。
920万ルク。
800万ルク。
札が外される。
700万ルク。
まだ、持ち主たちは笑おうとした。
「一時の下げだ」
「王国が新鉱脈を確認しただけだろう」
「魔石の需要は消えていない」
その通りだった。
魔石の需要は消えていない。
だから、余計に苦しかった。
700万ルクの売り札に、買い手はつかなかった。
取引所の書記が、乾いた顔で札を外す。
500万ルク。
それでも、買い手は少ない。
300万ルク。
この数字になって、ようやく一部の工房主が動いた。
彼らは実際に魔石を使う者たちだった。
将来の採掘収入がこの値段なら、まだ計算できる。
だが、借金で1000万ルクの権利を買った者には、遅すぎた。
夕方には、180万ルクでも買い手がつかない札が出た。
魔石は無価値になっていない。
街の魔灯は光っている。
工房炉は燃えている。
冷蔵倉庫は低い音を立てている。
治療院の器具も動いている。
必要なものは、必要なままだ。
ただ、1000万ルクで買った紙は、1000万ルクの顔を保てなかった。
グラント商会では、書記たちが走っていた。
追加で差し出すもの通知。
追加金請求。
早期返済確認。
鉱山権の値段見直し。
カシアンは奥の部屋に立っていた。
机の上には、赤線の入った台帳がある。
北灰鉱山権を預けて借りる紙。
今の値段、1000万ルク。
貸した金額、700万ルク。
今の値段、300万ルク。
不足。
その二文字が増えていく。
書記が、空欄だった場所へ次々に文字を書き込んでいた。
屋敷裏の土地。
馬車。
銀食器。
税を集める権利の一部。
昨日まで空白だった欄が、今日は借り手の家の中身で埋まっていく。
部下が青い顔で言った。
「取った鉱山権を売っても、貸した金額に届きません」
「追加で差し出すものを求めろ」
カシアンは即座に答えた。
「すでに通知を出しています。ですが、借り手側も鉱山権を追加購入しており、現金がありません」
「保有分は」
「商会保有の北灰、東割、南尾、すべて今の値段が落ちています」
カシアンは黙った。
魔石は本物だった。
その判断は間違っていない。
間違っていたのは、紙の値段がいつまでも本物の顔をしていると思ったことだ。
外では、客が怒鳴り始めていた。
「グラント商会が安全そうと言ったから借りたのだ!」
「値段はそちらが出した!」
「追加金など払えるか。権利を売れば足りるはずだろう!」
足りない。
その言葉を、まだ誰も口にしたくなかった。
一人の若い貴族が、受付台に鉱山権の紙を叩きつけた。
「これを売る。すぐだ」
書記は紙を見た。
北灰鉱山権。
購入額、1000万ルク。
鉱山権を預けた借金、700万ルク。
今、買い手が出している値段、300万ルク。
「売却しても、借入額に届きません」
「では、残りはどうなる」
書記は答えられなかった。
鉱山権を売る。
それでも、借りた銀貨の穴は残る。
紙の上では、売った後にも赤い数字だけが残っていた。
若い貴族の顔から、色が抜けた。
鉱山権を持っている。
売ることもできる。
魔石もまだ必要とされている。
それでも、借金は消えない。
王都の成金屋敷にも、同じ知らせが届いた。
石工たちは、半分積んだ壁の前で手を止めた。
親方が支払い予定表を見て、ため息をつく。
「次の銀貨袋が来ない」
足場は残った。
壁は途中で切れた。
門の上に付けるはずだった魔灯は、木箱の中で冷えたままだった。
馬車職人の店では、新車の車輪が外された。
「支払い延期?」
「鉱山権の評価が戻れば払うそうです」
「戻らなければ?」
弟子は答えられなかった。
夜会の招待状は、いくつも取り消された。
鉱山権祝いの宴。
北灰三口記念夜会。
魔石収入前祝い。
料理人は仕込んだ肉を塩樽へ戻した。
楽士は前金が出ないと聞いて、楽器箱を閉じた。
使いの者は、封蝋を割られる前の招待状を回収して回った。
「ご都合により中止」
その一文だけが残った。
バルガス男爵の屋敷でも、工事が止まった。
新しい門柱は片方だけ立っている。
もう片方は、石材のまま地面に置かれていた。
注文した馬車は、職人の店から出てこない。
門の前を通りかかった貴族が、足を止めた。
片方だけの門柱。
積まれたままの石材。
消えた職人。
その貴族は何も言わなかった。
ただ、口元を手で隠した。
後ろの従者が、小さく呟いた。
「半分でも、門は門ですか」
貴族は咳払いをした。
笑われるより悪い。
笑う価値もないという顔だった。
執事が追加で差し出すもの通知を差し出した。
グラント商会。
北灰鉱山権を預けて借りる紙。
鉱山権の値下がりに伴う追加金請求。
バルガスの顔から血の気が引いた。
「魔石は本物だ」
彼は言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
「本物だ。腐る花ではない。王国が認めた鉱山だ」
執事は黙っていた。
魔石は本物だった。
だからこそ、言い訳にならなかった。
本物を高く買いすぎた。
借金で買いすぎた。
返せなかった時のためにして、さらに買った。
残ったのは、片方だけの門柱と、追加金の紙だった。
レイジは白鷲銀行の一室で、返ってきた紙を見ていた。
鉱山権返せない時に取る約束。
追加で差し出すもの通知。
返済延期依頼。
売却不能記録。
馬車注文支払い停止。
屋敷建設代金遅延。
紙が増えていく。
白鷲銀行。
グラント商会。
下級貴族。
バルガス男爵。
運搬業者。
石工。
馬車職人。
一つの値札が落ちると、別の場所の支払いが止まる。
リーゼは横で、別の記録帳を開いていた。
倉庫。
小麦。
豆。
塩。
荷馬車。
配給札。
こちらにも紙はある。
だが、赤線は少なかった。
「明日の鍋は」
レイジが聞いた。
「出せます」
リーゼは答えた。
「三日は止めません。種も、倉庫も、荷馬車も押さえています」
「ならいい」
レイジは、鉱山権の紙束に目を戻した。
外では、取引所の鐘が鳴っている。
売買停止ではない。
ただ、値札を掛け替えるための鐘だった。
魔石はまだ価値を持っている。
王都は明日も魔石を使う。
工房も、治療院も、倉庫も、軍も、それを必要とする。
だが、1000万ルクで買った者は助からない。
売っても足りない。
返せなかった時のためにしても足りない。
追加金を求められても、現金がない。
権利ではなく、借金だけが残る。
カシアンはまだ倒れていない。
グラント商会の看板も落ちていない。
彼は、損をした貴族たちの顔を見ていた。
怒り。
焦り。
見栄。
取り返したいという目。
その目は、まだ買う。
カシアンは、そう読んだ。
レイジも、同じものを紙の上で見ていた。
返せない貸しの紙が、机の上に積まれていく。
鉱山の土より軽い。
だが、王都の屋敷を止めるには十分な重さだった。
レイジは一枚をめくった。
未返済。
足りない。
追加金未納。
紙は静かだった。
静かなまま、次の値札を待っていた。




