第30話 奥の部屋で逃げるカシアン
白鷲銀行の奥の奥の部屋は、表より静かだった。
厚い扉。
柔らかい椅子。
壁には白鷲の紋章。
窓には重い布がかかっている。
外の声は、くぐもって聞こえた。
それでも、消えない。
「順番を守ってください」
「預けた金だぞ」
「奥には通すのか」
「窓口を開けろ」
カシアン・グラントは、その声を聞きながら座っていた。
顔には、まだ笑みがある。
だが、指先は笑っていなかった。
白鷲銀行の頭取は、年を取った男だった。
丸い眼鏡をかけ、額に汗を浮かべている。
その横に、幹部が二人。
一人は帳簿を抱え、一人は鍵束を握っている。
カシアンは言った。
「グラント商会の預け金の一部を、北支店へ移してください」
頭取の顔が硬くなる。
「今ですか」
「今です」
「表の状況をご存じでしょう」
「だから今です」
カシアンの声は荒くない。
むしろ、丁寧だった。
「商会の資金が白鷲銀行に集中していると見られれば、こちらの信用にも関わります。王国支援証書の販売も続いている。商会の支払い能力を守る必要があります」
理屈はある。
グラント商会は大きい。
仕入れも支払いも多い。
商会が倒れれば、関わる者も倒れる。
だから資金を分ける。
だから先に動く。
商人としては、間違っていない。
だが、扉の外には列がある。
頭取はハンカチで額を押さえた。
「金額は」
「まず、200万ルク」
幹部の一人が息を呑んだ。
「窓口で銀貨を出せとは言いません」
カシアンは、机の上の帳簿を指で示した。
幹部が二冊の帳簿を置く。
一冊目の表紙には、王都本店。
二冊目の表紙には、北支店。
カシアンは王都本店の帳簿を開いた。
グラント商会。
預け金。
200万ルク。
その行を指で押さえる。
「この数字を、こちらへ移してください」
次に、北支店の白い欄を指した。
まだ何も書かれていない欄だった。
「王都本店の行を消して、北支店に同じ数字を書く。銀貨を箱から出す必要はありません。白鷲銀行の中で、預け先を変えたことにするだけです」
幹部が、机の下に置かれた銀貨箱を見た。
箱は動いていない。
鍵も開いていない。
銀貨袋も、そこにある。
ただ、帳簿の行だけが別の場所へ移る。
「振替、ということですか」
幹部が鍵束を握り直した。
「ええ」
カシアンは頷いた。
「外の客に銀貨を見せる必要はありません。帳簿の上で、グラント商会の金をここから北支店へ逃がす。そうすれば、表の列がどうなっても、商会の資金は守れます」
頭取の顔が、さらに硬くなった。
「カシアン。それは、今この状況で行えば、他の預金者には先抜けに見えます」
「見えなければ問題ありません」
カシアンは静かに言った。
「帳簿の中の移動です。窓口の箱は減らない。外の者に分かるはずがない」
幹部たちの顔から、余裕が消えた。
外では、人々が銀貨を待っている。
その銀貨を一枚も動かさず、帳簿の上だけでグラント商会の金を逃がす。
だからこそ、見られてはいけない。
幹部が小声で言う。
「カシアン。王国支援証書の保有分は」
「売った分とは別です」
カシアンは即座に答えた。
「商会が持っている王国支援証書も、白鷲銀行の帳簿から外してください。商会の奥での管理に戻すだけです。販売台帳には影響しません」
販売台帳。
その言葉を聞いた頭取が、わずかに顔をしかめる。
カシアンは買う側ではない。
売る側だった。
だから、客の前では安心を売る。
奥では自分の資金を逃がす。
それは、表へ出してはいけない動きだった。
扉が叩かれた。
銀行員が慌てて入ってくる。
「頭取、教会王都本院の使いが、救済事業の預け金について直接確認を――」
その後ろに、白い袖が見えた。
教会の使いだけではない。
小柄な下級貴族の男もいた。
銀行員に止められたのを押し切ったのだろう。
さらに、商人らしい中年の男も顔を出している。
全員が、部屋の中を見た。
部屋の中には頭取と帳簿、鍵束があり、その前にカシアンとグラント商会の移管依頼書があった。
移管。
別の支店へ移す、と書かれた紙だった。
沈黙が落ちた。
下級貴族の男が、最初に言った。
「カシアン」
声は小さかった。
「表では皆、順番を待っております」
カシアンは立ち上がった。
「誤解です」
完璧な速さだった。
「グラント商会は白鷲銀行の信用を支える立場にあります。資金の配置を確認していただけです」
商人の目が、机の上の紙へ落ちる。
移管。
別支店。
商会が持っている証書。
預け金。
読める者には、十分だった。
教会の使いが顔を強張らせる。
「商会の証書を、先に外すと」
「商会の奥での管理です」
カシアンは笑みを戻そうとした。
戻りきらなかった。
下級貴族の男は、ゆっくり後ずさった。
「そうですか」
それだけ言って、廊下へ出た。
銀行員が止めようとする。
遅かった。
男は階段を降りる。
その途中で、列の前の商人が聞いた。
「奥で何をしていた」
男は一度だけ振り返った。
顔に怒りはない。
むしろ、青ざめていた。
「グラント商会が、先に移している」
前方の列が静まった。
「何を」
「預け金だ。証書も外すと聞こえた」
「カシアンが?」
「奥で」
言葉は前方から中ほどへ渡った。
「グラント商会が先に抜いている」
「白鷲は、大商会だけ先に返すのか」
「いや、別支店へ移すらしい」
「同じことだろう」
中ほどから後方へ行く頃には、別の形になっていた。
「カシアンが逃げた」
「グラント商会が抜いた」
「売った本人が逃げるなら、証書も危ないんじゃないのか」
市場側へ届く頃には、さらに短くなった。
「グラントが逃げた!」
その一言だけで、十分だった。
白鷲銀行前の列が、一瞬だけ静かになった。
静かになったあと、前へ詰めた。
「開けろ!」
「奥へ通せ!」
「グラント商会を先に出すなら、こちらも出せ!」
窓口の小窓が叩かれる。
かん、かん、と乾いた音が続く。
銀行員が叫ぶ。
「順番に!」
その声はもう届かない。
列のどこかで、誰かが言った。
「売る時は表で笑って、逃げる時は奥か」
笑いは起きなかった。
笑うには、皆の銀貨が近すぎた。
カシアンは奥室の扉の前で立っていた。
顔から、余裕が消えている。
怒鳴らない。
取り乱さない。
だが、分かっていた。
一番やってはいけない形で、見られた。
商会の金を守るため。
その理屈は、部屋の中では通る。
だが、列の前では違う。
安心だと言って証書を売っていたグラント商会が、自分の金だけ先に動かそうとした。
外の人間には、そう見えた。
レイジは銀行の向かいから、その変化を見ていた。
並んでいた者たちの顔から、不安が怒りに変わっていく。
レイジは噂を流していない。
だが、どの話がどこへ広がるかは見えていた。
グラント商会の名前。
王国支援証書。
白鷲銀行の紹介窓口。
その三つが同じ紙に乗れば、誰かが必ず声に出す。
声に出た時、逃げる者の手元だけを見ればいい。
怒った人間は、細かい理由まで確かめない。
「見た」という一言だけで動き出す。
ノアは列の外側で、子供に水を渡していた。
「こっち、押されるから離れて」
小さな男の子を、母親の方へ戻す。
手に、リーゼ家の配給札を握らせる。
「市場裏。鍋があるから」
男の子は頷いた。
銀行前では、誰かが王国支援証書を握りしめていた。
赤い蝋の印が、汗で鈍く光る。
朝には安心に見えた印だった。
今は、銀貨に戻らない紙に見えていた。




