第29話 夕方、列は市場へ伸びる
夕方には、白鷲銀行前の列は市場の入口まで伸びていた。
最初は銀行の客だけだった。
今は違う。
列に並ばない者まで、足を止める。
見て、聞いて、近くの店へ戻る。
そして、別の者に話す。
「白鷲銀行の窓口が詰まっている」
「グラント商会へ貸しすぎたらしい」
「王国支援証書も、すぐ銀貨には戻らないそうだ」
「教会の使いも並んでいた」
それぞれの声に、少しずつ余計なものが混じる。
市場のパン屋が、粉まみれの手を前掛けで拭いた。
「明日の小麦、先払いにしてくれ」
「いつもは三日後だろ」
「白鷲に預けている問屋が、今日は掛けを嫌がっている」
屋台の男が、銅貨を数え直す。
「銀貨じゃなく、銅貨で払ってくれ。釣りが出せなくなる」
魚売りの女は、氷屋の方を睨んだ。
「氷代が上がるって?」
「白鷲のせいだ。氷倉の支払いが止まるかもしれないって」
「魚が腐ったら、銀行に食わせるのかい」
誰も本気で銀行に魚を投げるつもりはない。
だが、言わずにはいられない。
金融の不安は、銀貨の箱だけで止まらない。
パン、豆、氷、給金、馬車代、水桶、炊き出しの薪。支払いが止まれば、街の小さな場所から先に詰まる。
ひとつずつ、生活の端に触れていく。
リーゼは市場裏の倉庫に戻ると、すぐに記録帳を開いた。
「今日の配給札は何枚残っていますか」
ノアが木箱を持ってきた。
「三十七枚」
「明日は増やします。二百枚では足りません」
「何枚?」
「三百」
ノアは目を丸くした。
「そんなに来る?」
「来なければ残せばいい。来てから作る方が困ります」
リーゼは次にマルタを見る。
「豆は」
マルタは袋の口を開けた。
「今夜の分を抜いて、明日一日ならぎりぎり。明後日は足りない」
「パンは」
「固いのを入れれば数は増やせる。うまくはないよ」
「腹には入りますか」
「入る」
「では、それで」
リーゼは記録帳に書いた。
豆。
麦。
固いパン。
水桶。
薪。
配給札、三百。
子供と老人は先。
マルタは鍋のそばで腕を組んだ。
「祈りより先に豆を数えな。鍋は神様じゃ膨れない」
「分かっています」
リーゼは短く答えた。
教会の鍋が薄くなった時、何が起きたかを見た。
王国支援証書を買った紙の一行が、現場では水の増えた鍋になった。
同じことはしない。
ノアは水桶を見た。
「銀行の列にも、水を持っていく?」
リーゼは一瞬考えた。
「子供と老人がいれば。ですが、銀行前で配りすぎると、こちらの列と混じります」
「じゃあ、札は?」
「配給所の場所だけ伝えて。銀行の順番を乱さないように」
ノアは頷いた。
ただ水を配るだけではない。
列を壊さず、人を逃がす道を作る。
それも仕事だった。
レイジは倉庫の奥で別の紙を見ていた。
白鷲銀行の預金者一覧ではない。
まだ、そこまでは手に入っていない。
だが、王国支援証書の販売記録の写し。
グラント商会の販売台帳の一部。
教会購入記録。
白鷲銀行が扱った証書保管分。
それらの端に、同じ名前が見え始めていた。
白鷲銀行からグラント商会へ、そこから聖白教会と王国財務府へ。紙は別々の名前をつけられて、同じ場所に集まっていた。
それぞれ別の紙に見える。
だが、金は同じ通りを歩いている。
販売した者、預けた者、証書に変えた者、鍋を薄くした者。全員が、同じ紙から目をそらしていた。
紙が違うだけで、同じ銀貨が何度も名前を変えていた。
「レイジ」
リーゼが近づいてきた。
「食材商への支払いが止まれば、こちらの鍋も止まります」
「ああ」
「小口の支払いを優先させる必要があります。パン屋、豆屋、薪屋、水運び。日雇いの給金も」
小口。
一つ一つは小さい。
だが、止まれば明日の鍋に穴が開く支払いだった。
「銀行は、大口から守りたがる」
「だから、条件に入れてください」
リーゼの声は硬かった。
「あなたが銀行へ入るなら、生活の支払いを後ろに回さない条件を入れてください」
レイジは紙から目を上げた。
「銀行が条件を飲むとは限らない」
「飲ませるために、あなたが行くのでしょう」
リーゼは言った。
レイジは少しだけ笑いそうになり、やめた。
リーゼはもう、救ってほしい側ではない。
線を引く側に立っている。
「分かった」
それだけ答えた。
外から、白鷲銀行の方へ走る足音が聞こえた。
市場の小僧が息を切らして、倉庫前を通り過ぎる。
「グラント商会のカシアンが来てるって!」
ノアが顔を上げた。
「カシアン?」
小僧は振り返りもせず叫ぶ。
「銀行の奥だって! 表じゃなくて、奥!」
マルタが鍋を混ぜる手を止めた。
「奥ねえ」
リーゼの表情が変わる。
銀行前の列は、表にいる。
その時、大きな商会だけが奥へ入れば、先に自分の金を逃がしているように見える。
レイジは紙束を閉じた。
「行く」
ノアが水桶を持つ。
「ぼくも」
「銀行の列には近づきすぎるな。子供に水を配れ。札も渡せ」
「分かった」
マルタは鍋に蓋をした。
「こっちは任せな。鍋の火と豆は止めない」
夕方の光が、白鷲銀行の方から市場へ伸びていた。
銀行に並ぶ人だけの話ではなくなっていた。
王都の不安が、市場の店や炊き出しの列にまで広がっていた。




