第20話 面子で署名
カシアンが来ると、門前の貴族たちが一斉にそちらを見た。
馬車の紋、付き従う商会員、磨かれた靴、灰色の上着。誰が見ても、グラント商会の若君だった。
珍花市場の端に来た時と同じ爽やかな笑みだった。
だが、今日は客ではなく、社交の場へ入る者の顔をしていた。
ノアが門を開ける。
「招待状をお持ちですか」
カシアンは少し笑った。
「もちろん」
白い招待状を出す。
リーゼ家の封蝋が押されている。
その招待状は、昨日送られたものだった。
送るべきかどうか、リーゼは長く迷った。
だが、最終的には自分で封をした。
「断れば、外しているという噂が本当になります」
リーゼはそう言った。
「招けば、向こうが選ぶ側ではなく、こちらが招いた側になります」
レイジは止めなかった。
サロンの広間には、すでに下級貴族たちがいた。
カシアンが入ると、視線が集まる。
王都最大商会の跡取りが、この古い屋敷に入った。
それだけで、会の格が一段上がったように見えた。
「グラント商会が入るのか」
「では、この会も大きくなるな」
「カシアンが小口ということは、ないでしょう」
声は低かった。
だが、カシアンには聞こえる距離だった。
下級貴族たちは、彼を歓迎している。
同時に、値踏みしている。
王都最大商会が、どれだけこの会を支えるのか。
カシアンが、どれだけの額を置くのか。
小さく入れば、臆したと言われる。
大きく入れば、会を支えたと言える。
どちらの視線も、カシアンに向いていた。
リーゼは前に立った。
「カシアン・グラント様。本日はご参加ありがとうございます」
「お招きいただき光栄です、リーゼ様」
声は柔らかい。
周囲の貴族たちが、わずかに身を乗り出す。
カシアンはそれを分かっていた。
分かったうえで、丁寧に振る舞っている。
「契約書は拝見しました」
カシアンは言った。
「返礼は、会の箱に残った銀貨の範囲内。銀貨が足りなければ支払いは遅れる。途中で抜ければ、入れた額から手数料が引かれる。参加した順番と入れた銀貨、戻った銀貨は名簿に記録される」
広間が少し静かになった。
危険条項を、わざと声に出した。
読んでいる。
分かっている。
それでも入る。
そう見せるためだ。
リーゼは頷いた。
「その通りです。隠す条項ではありません」
「誠実ですね」
「読まずに署名していただくつもりはありません」
リーゼの声は硬かった。
だが、逃げなかった。
カシアンは笑った。
「では、読んで署名します」
奥の小部屋で、レイジは参加順の名簿を開いた。
名前の横には、入れた銀貨、返礼予定、抜ける予定、残額が細かく書き込まれている。
その下の方に、まだ空いた行があった。
カシアンのための行だ。
かなり下だ。
早く入った者たちの欄には、返礼済みの印がある。
途中で抜けた者の欄には、入れた額から赤線で数枚分を引いた残額が書かれている。
まだ残っている者もいる。
カシアンは遅い。
だが、遅い者ほど、自分はまだ最後ではないと思いたがる。
広間で、金額が告げられた。
「100万ルク」
下級貴族たちが息を呑んだ。
それまでの最大口は、20万ルクだった。
大口でも30万ルク。
一人で置く大きな銀貨袋としては、それでも十分に目立つ額だった。
100万ルクと聞いて、広間の客たちは黙った。
カシアンは穏やかに言った。
「リーゼ家再建のお役に立てれば」
その言葉は上品だった。
だが、意味は違う。
この会は、グラント商会が支えた。
周囲に、そう見せる額だった。
リーゼは一瞬だけ、奥の部屋を見た。
レイジは何も言わなかった。
止める理由はない。
契約書は置いてある。
危険条項も読まれた。
名簿に載ることも説明した。
残資金の不足も、支払い遅延も、途中で抜ける手数料も、全部紙にある。
それでも署名するなら、契約は契約だ。
カシアンは席に座った。
ペンを取る。
「グラント商会としての参加でよろしいですか」
リーゼが確認した。
「はい。私個人ではなく、商会名で」
「名簿にも、そのように記録されます」
「構いません」
カシアンの後ろで、部下がわずかに顔を動かした。
止めたいのだろう。
だが、止められない。
ここで止めれば、カシアンが怖じ気づいたように見える。
王都最大商会が、下級貴族の小さな会の前で退いたように見える。
カシアンは署名した。
カシアン・グラント。
続けて、グラント商会印が押された。
重い音だった。
銀貨ではなく、印の音。
広間の者たちが見ている。
見られる中で押した印は、後から隠せない。
レイジは名簿に記録した。
参加した順番。
二十七番。
入れた銀貨。
100万ルク。
返礼予定。
残資金の範囲内。
名簿の中で、その行だけが重かった。
カシアンは奥の小部屋へ一度だけ視線を向けた。
目が合う。
笑みは残っている。
「レイジさん」
「何ですか」
「今回は、読んで署名しました」
「見ていました」
「では、後で読まなかったとは言いません」
「助かります」
カシアンは少し目を細めた。
負けると思っている顔ではない。
むしろ、ここから会を広げる側に回るつもりの顔だった。
レイジは名簿を閉じた。
名簿は閉じても、参加した順番は消えない。
カシアンの名前は、下の方に残った。




