第19話 読ませるカシアン
カシアン・グラントは、珍花の損失帳を閉じた。
損はしていた。
だが、致命傷ではない。
一部は早く売った。
一部は損切りした。
残った花は捨て値で装飾職人に渡した。
バルガスほど抱えなかった。
夜会で腐らせてもいない。
珍花男爵とも呼ばれていない。
それでも、損失帳に赤い数字は残った。
「授業料としては、安くないですね」
部下が言った。
カシアンは笑わなかった。
「安く済ませた方だよ」
机の上には、リーゼ家再建サロンの参加契約書と招待状の写しが置かれていた。
端には、参加者の噂を書き集めた紙も挟まっている。
カシアンはその紙束を指で押さえた。
「読ませたか」
「はい。三人に」
部下は紙束を開いた。
「危険条項があります」
「読む」
「戻す銀貨は、会の箱に銀貨が残っている場合に支払う。箱の銀貨が足りない場合、戻す日は遅れる。参加者はその危険を分かったうえで参加する」
カシアンは頷いた。
「続けて」
「途中で抜けるには手数料。途中で抜ける者は、入れた銀貨から一定額を引かれる。参加した順番、入れた銀貨、戻った銀貨、抜ける状況は、誰が先か見えるように名簿に残される。参加者は名簿に残すことに同意する」
「名簿か」
「危険です」
部下はすぐに言った。
「早い者には礼金が戻っています。しかし、その礼金がどこから来るかが不明です。会そのものが利益を出している形跡は薄い」
カシアンは窓の外を見た。
グラント商会の前には、いつも通り馬車が並んでいる。
大商会の看板、厚い扉、整った帳簿。その全部が、信用に見えた。
それがあるから、人はここへ金を持ってくる。
リーゼ家には、それがない。
あるのは古い家名と、招待状だけだ。
それで、人が集まっている。
「後から来た金か」
カシアンが言うと、部下は黙った。
答えは、契約書には書かれていない。
だが、帳簿を読めば見える。
「参加はお勧めしません」
部下は言った。
「危険は読めています。最後に入った者ほど不利です。返礼が遅れても、契約上は逃げにくい。名簿に残るのも問題です」
「最後にならなければいい」
カシアンは言った。
部下の顔が曇る。
「すでに遅いかもしれません」
「まだ会は小さい。リーゼ家だけでは広げられない。下級貴族の小銭を回しているだけだ」
カシアンは契約書を手に取った。
「こちらが入れば、会の格は上がる。参加者も増える。主導権も取れる」
「レイジが設計している可能性があります」
「可能性ではない。彼だろう」
カシアンは、珍花市場のレイジを思い出した。
首輪の痕があり、商会名も信用もない。それでも値札で人を動かした男が、そこにいた。
今度は、奥に隠れている。
それは、レイジ自身では信用が足りないと分かっているからだ。
「元奴隷にしては、よく考える」
言葉にしたあと、カシアンは少しだけ自分で笑った。
「いや、訂正しよう。元奴隷だから軽く見た結果、花で損をした」
部下は何も言わなかった。
「今回は軽く見ない。契約も読んだ。危険も見た。名簿の意味も分かっている」
「では、なぜ参加を」
カシアンは部下を見た。
「グラント商会だけが外されているらしい」
その噂の紙を、指で弾く。
「それを放置すると、どうなる?」
「下級貴族の会です。実害は限定的です」
「違う」
カシアンの声は穏やかだった。
「王都最大商会が、下級貴族の互助会に入れてもらえない。そう見えることが問題だ」
部下は口を閉じた。
商売は金だけではない。
誰の席に呼ばれ、誰の名簿に載り、誰から外されるか。それだけで、貴族たちの顔色は変わる。
仲間外れに見えることを、彼らは恐れていた。
「参加します」
部下は小さく息を吸った。
「少額で?」
「少額では意味がない」
「では、危険が」
「大口で入る。こちらが会を支える形にする」
カシアンは契約書を閉じた。
「支える者は、やがて口を出せる。リーゼ家の名義だけでは、会は大きくならない。グラント商会が入れば、参加者は増える。礼金も続く」
「口を出すとは」
「次の礼金窓口を商会に置く。推薦状の確認を商会経由にする。帳簿の補助を引き受ける。どれか一つでも取れれば、会はリーゼ家だけのものではなくなる」
部下は紙を握った。
「向こうが受けますか」
「金が増えれば、人も増える。人が増えれば、リーゼ家だけでは処理できない。必要になった時に、こちらが手を出す」
カシアンは笑わなかった。
「こちらが先に出口を決めればいい」
理屈はあった。
カシアンは危険も契約も名簿も読んでいる。読んだ上で、席に座ろうとしていた。
それでも、彼は署名する道を選んだ。
部下は最後に言った。
「若様。最後尾になる危険があります」
カシアンは立ち上がった。
「最後尾にはならない」
その声は、初めて少しだけ硬かった。
損を恐れている声ではない。
外されることを恐れている声だった。




