第13話 横取りする者たち
バルガス男爵の使いが来たのは、値札が10万ルクを超えた翌朝だった。
使いは男爵家の紋をつけていた。
声も態度も、買い物に来た者のものではない。
「レイジ様」
様、という言葉だけが薄かった。
「バルガス男爵が、花をお求めです」
市場の商人たちが一斉にこちらを見た。
バルガスの名は、それだけで値を持っている。
少なくとも、この市場の端ではそうだった。
レイジは花を並べていた。
今日は二束だけ。
値札は15万ルク。
「買うなら、値札通りです」
使いの眉が動いた。
「バルガス男爵に対して」
「花は身分を読まない」
ノアが後ろで息を止めた。
使いは不快そうにしながらも、革袋を出した。
15万ルク。
二束。
合計30万ルク。
かつてレイジの首に値札として乗った額と同じだった。
使いは花を受け取り、わざとらしく周囲に見せた。
「バルガス男爵は、良いものを早く見抜かれる」
誰かが囁いた。
「バルガス男爵が買った」
「なら本物か」
「貴族が入ったぞ」
別の声が落ちた。
「リーゼ家の件で読み違えた男爵が、今度は花か」
「声が大きい」
「いや、契約では負けたが商売では勝つ、ということだろう」
その笑いは、小さかった。
だが、使いの耳には入ったらしい。
使いの顔が硬くなる。
レイジは何も言わなかった。
バルガスは契約で一度傷をつけられた。
屋敷を取られずに済んだ。
奴隷の首輪も外された。
なら、別の場所で取り返したくなる。
花でも、値札でも、貴族の面子には足りるらしい。
リーゼが低く言った。
「男爵は、あなたから利益を奪うつもりですか」
「そうだろうな」
「分かっていて売るのですか」
「売り物だからな」
「でも、買い占められたら」
「買い占めたいなら、買えばいい」
リーゼはレイジを見た。
「あなたは、男爵を信用していません」
「もちろん」
「男爵もあなたを信用していない」
「それでいい」
レイジは空いた木箱を閉じた。
「信用していない相手からでも、儲けを横取りできると思えば買いに来る」
リーゼは何も言わなかった。
その日の午後、もうひとり別の客が来た。
身なりのよい青年だった。
明るい灰色の上着に手入れされた靴、商人らしい柔らかい笑み。カシアンは、そういう姿で現れた。
市場の商人たちの反応が、バルガスの使いの時とは違った。
敵を見るのではなく、道を空ける。
青年は人だかりを抜け、レイジの前で足を止めた。
「あなたがレイジさんですね」
声は爽やかだった。
よく通るが、押しつけがましくない。
「カシアン・グラントです」
リーゼの表情が変わった。
「グラント商会の……」
「若輩です」
カシアンは軽く会釈した。
「王都最大商会の後継者、というほど偉くはありません。まだ父の看板の下で働いている身です」
そう言う姿は、よくできていた。
謙虚に見える。
だが、誰も彼を下に見ない。
それが看板の力だった。
カシアンは花を見た。
「美しい花ですね」
「食べられません」
「でしょうね」
「薬にもならない」
「見れば分かります」
「魔法素材としても弱い」
「それも、おそらく」
カシアンは笑った。
「けれど、売れている」
レイジは答えなかった。
カシアンの視線が、レイジの首に一瞬だけ落ちた。
首輪の痕。
それから、木箱。
値札。
人だかり。
「あなたを信用して買っている人は、少ないでしょう」
「いないかもしれない」
「正直ですね」
「嘘をつく理由がない」
カシアンは少し楽しそうに目を細めた。
「価値はともかく、売れる相手がいるなら商売になります」
その言葉を聞いて、周りの商人たちの目が花から値札に移った。
この男は、花を見ていない。
値段が上がっていく動きを見ている。
バルガスとは違う。
カシアンは言った。
「本日の分は」
「売り切れた」
「明日は?」
「値札次第です」
「では、予約できますか」
「しない」
「なぜ」
「値段が決まっていない」
カシアンは一瞬だけ黙った。
それから笑った。
「なるほど。今日の値段を出さずに、明日もっと高くするわけですか」
リーゼがカシアンを見た。
カシアンは穏やかな顔で続けた。
「面白い。元奴隷の小商売と聞いていましたが、なかなか手が込んでいる」
元奴隷。
その言葉は、柔らかく置かれた。
柔らかいからこそ、よく刺さる。
ノアが顔を上げた。
レイジは反応しなかった。
カシアンの後ろに控えていた商会員が、小さく聞いた。
「若様。花そのものに価値がないなら、危険では」
「危険だよ」
カシアンは平然と答えた。
「だが、買う者は自分で買う。損をしても、選んだのは本人だ」
ノアが顔をしかめた。
「それ、男爵さまと同じこと言ってる」
小さな声だった。
だが、レイジには聞こえた。
レイジは、すぐには言い返せなかった。
選んだのは本人。
その言い方だけなら、バルガスと同じ言い訳になる。
だから、最後に残すものだけは決めていた。
花の値段ではない。
庭師の契約と、返せる形だ。
カシアンにも聞こえただろう。
それでも、カシアンは笑みを崩さなかった。
「契約も商売も、最後に選ぶのは本人ですから」
その声は軽かった。
レイジはカシアンを見た。
柔らかい笑みと丁寧な物腰、整った言葉。それがカシアンの外側だった。
だが、中身はバルガスと遠くない。
読まなかった者が悪い。選んだ者が悪い。損をした者が悪い。カシアンの言葉は、いつもそこへ戻る。
ただし、バルガスよりずっときれいに言う。
リーゼは売上の紙を二つに分けていた。
一つは珍花の売上。
もう一つは庭師への支払い。
「同じ袋に入れないのですね」
「混ぜたら、誰の金か分からなくなる」
レイジが言うと、リーゼは紙を見下ろした。
「では、分けておきます」
「明日、買いに来ます」
カシアンは言った。
「ただし、少しだけ」
「どうぞ」
「全部は買いません。花の量も、買い手の顔も、まだ見えない」
バルガスよりは賢い。
だが、入ってくる。
値が上がっているからだ。
翌日、カシアンは三束買った。
値札は20万ルク。
うち一束はその日のうちに売ったらしい。
利益は出た。
残り二束は、手元に置いた。
バルガスの使いは、さらに遅れて来た。
そして、残りをすべて買った。
「バルガス男爵が、まとまった数を望まれています」
市場の商人たちがざわめく。
レイジは花を渡した。
リーゼが小さく言った。
「止めないのですね」
「止める理由がない」
「危ないと分かっていても?」
「買っているのは花じゃない」
レイジは、花束を抱えて去る使いを見た。
「自分だけは最後ではないという気分だ」
ノアが、花束の減った木箱を見た。
「みんな、自分の後ろにも誰かが並ぶと思ってる」
「そうだ」
「後ろがいなくなったら?」
「花を抱えたままになる」
リーゼの手が、外套の端を握った。
その日、値札だけで作られた列に、貴族と大商会が並んだ。
誰もレイジを信用していない。
だからこそ、自分なら先に降りられると思っていた。




