第12話 信用ではなく値札が動く
翌日、値札は3000ルクになった。
野菜売りが、朝から笑った。
「おい、兄ちゃん。昨日500だったろ」
「今日は3000だ」
「誰が買うんだ、そんな花」
レイジは答えなかった。
花は昨日より少なかった。
木箱の中には五束だけ。
青い花弁は、朝の光を受けて静かに光っている。
ノアが小声で聞いた。
「もっとあるよね」
「ある」
「出さないの?」
「出さない」
ノアは木箱の隙間を見た。
奥には布で包んだ花束がまだある。
「少ない方が、高くなるの?」
「少ないと思われる方が、高くなる」
レイジは布で包んだ花束を、木箱の奥へ押し込んだ。
客から見えるのは、五束だけだった。
ノアはますます分からない顔をした。
リーゼはその言葉を聞いていた。
何か言いかけて、やめる。
昼前、昨日の衣装屋の使いが戻ってきた。
「昨日の花、奥様が気に入ったわ」
視線が値札へ行く。
「3000?」
「今日は3000ルクです」
「高すぎない?」
「なら、昨日買った分は安かった」
女は黙った。
後ろで、香草売りが聞き耳を立てている。
向かいの商人も手を止めた。
女は迷った末に、一束だけ買った。
3000ルク。
ノアの喉が小さく鳴った。
女が去ると、香草売りが近づいてきた。
「今の店、昨日の花を袖飾りにして売ったらしいぞ。貴族の奥方が買ったとか」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ。兄ちゃん、これどこから仕入れてる」
「庭だ」
「どこの庭だ」
「花の咲く庭だ」
香草売りは舌打ちして戻った。
その日の夕方、残りは売れた。
買ったのは、花が好きな者ではなかった。
花を次に売れそうな者だった。
三日目。
値札は1万ルクになった。
さすがに市場がざわついた。
「昨日3000だろ」
「貴族が買ったらしい」
「どこの貴族だ」
「知らん。東通りの衣装屋から流れたって話だ」
「いや、北門の夜会で見たって」
噂は、正確である必要がなかった。
値札の横に、花が少しだけ並んでいる。
それだけで足りる。
商人はレイジを信用していない。首輪痕を見て、紙束を見て、商会看板のない売り場を見た。
それでも、値札を見る。
1万ルク。
昨日より高い。
その一行だけが、人の目を引いた。
ひとりの装飾商が買った。
その男は、市場の出口まで行く前に、別の商人に呼び止められた。
「それ、一本だけ分けろ」
「1万で買ったばかりだぞ」
「1万2000」
「話にならない」
「1万5000」
装飾商は一度だけ振り返り、レイジの売り場と値札、残りの花を順に見た。
それから、花束の中から一束だけ抜いた。
「1万5000なら、一本だけだ」
その場で銀貨が渡った。
花を受け取った商人は、嬉しそうではなかった。
置いていかれずに済んだ顔だった。
話はすぐ市場へ戻ってきた。
「1万5000で売れた」
「1万で買って、1万5000か」
「花に?」
「花じゃねえ。今は値がついてるんだ」
ノアは、銀貨が渡る手を見ていた。
「花、使わないのに、もう売った」
「そうだ」
「じゃあ、花が欲しいんじゃなくて、次の人に渡したいんだ」
「そう見え始めたら、値札は花から離れる」
買った者が得をした。
その事実だけが、花の価値より先に広がった。
誰も花を欲しがっていなかった。
欲しがっていたのは、昨日より高く売れたという話だった。
北方訛りの荷運び人がまた通った。
彼は花を見て、鼻を鳴らした。
「やっぱり似てるな。北じゃ祝いには置かねえぞ」
今度は、香草売りが少しだけ眉を寄せた。
「北の話だろ。王都じゃ関係ない」
「そうかい」
荷運び人はそれ以上言わなかった。
レイジは値札を片づけた。
翌日。
3万ルク。
ノアは値札を二度見した。
「間違えてない?」
「間違えていない」
「花だよ」
「昨日までも花だった」
ノアは言い返せなかった。
リーゼは朝から黙っていた。
客は増えた。
買う者より、見る者が多い。
見た者が、隣に囁く。
囁かれた者が、また値札を見る。
値札だけが、声を持っていた。
昼に、初老の商人が来た。
「全部で何束ある」
「今日は三束」
「今日は?」
「明日は知らない」
商人は笑った。
「奴隷上がりのくせに、ずいぶん強気だ」
「買いますか」
「買う」
商人は3万ルクを三枚分置いた。
花を受け取る手は、少し急いでいた。
夕方には、その花のうち一束が5万ルクで別の貴族の使いへ渡った。
誰も花の匂いも、薬効も、魔法素材としての価値も聞かなかった。
聞くのはひとつだけだ。
次はいくらで売れるのか。
五日目。
値札は10万ルクになった。
市場の端だった場所に、人だかりができた。
野菜売りはもう笑わなかった。
香草売りは腕を組んで、ずっと見ている。
「10万ルクの花か」
「昨日、貴族街で7万で出たって」
「じゃあ、まだ上がるのか」
「知らん。だが、昨日買った奴は得した」
その言葉が、一番強かった。
昨日買った者は得をした。
なら、今日買わない者は損をするかもしれない。
リーゼが横から言った。
「皆、あなたを信用しているようには見えません」
「していない」
「なのに買うのですか」
レイジは値札を見た。
「俺を信じているんじゃない」
人だかりの向こうで、商人が別の商人に耳打ちしている。
「あの花、今日のうちに押さえろ」
「明日には倍かもしれない」
「どこかの貴族が欲しがっているらしい」
レイジは続けた。
「次に高く買う誰かを信じている」
ノアが人だかりを見た。
「じゃあ、最後に買う人は?」
「最後だと気づいた時には、花しか残らない」
リーゼは黙った。
その顔には、納得より先に怖さがあった。
やがて、10万ルクの花は売れた。
買った男は、花を胸に抱くようにして去った。
美しいものを買った顔ではなかった。
逃げ遅れないように、札を掴んだ顔だった。
市場の裏手で、庭師から届いた新しい木箱がひとつ置かれた。
布で包まれたまま、誰にも開けられていない。
リーゼの視線がそこへ落ちる。
「まだ、あるのですね」
「ある」
「希少だと、皆が言っています」
「俺は言っていない」
リーゼは息を呑んだ。
レイジは空になった木箱を閉じた。
花はまだある。
だが、今日はもう出さない。
何もない売り場の前で、人だけが残った。
誰もレイジを信用していない。
それでも、明日の値札を見ようとしていた。




