第10話 首輪が外れる
30日目の朝、帳簿部屋の机には二冊の帳簿が並べられた。
一冊は古いもの。
もう一冊は、再契約後のもの。
バルガスは椅子に座り、指先で表紙を叩いていた。
部屋には、帳簿係、監督役、リーゼがいる。
ノアとマルタは扉の外に立たされていた。
レイジは机の前に立っていた。
首輪はいつも通り重い。
だが、今日はその重さが妙にはっきりしていた。
古い帳簿が開かれる。
古い帳簿には、赤字の欄が並んでいた。
死亡。
逃亡。
病気。
回収不能。
鉱山候補。
罰則予定。
次に、新しい帳簿。
そこには、黒字の欄が増えていた。
少額返済。
作業復帰。
返す日の更新。
鉱山送りの停止。
取られる約束の解除。
厨房返済計上。
帳簿係は最初の欄を指した。
「30日間で、実際に戻った銀貨。合計11万2300ルク」
少ない。
60万には遠い。
だが、前月の同対象者の回収額は、ほぼゼロだった。
帳簿係は次の欄へ指を移す。
鉱山へ送る費用。
馬車代。
鉱山商への手数料。
罰則後の治療費見込み。
古い帳簿では、そこに赤い数字が並んでいた。
新しい帳簿では、その多くに横線が引かれている。
「送らなかったので、増えなかった費用です」
さらに、厨房労働の欄。
マルタの名の横には、30日分の作業印が並んでいた。
倒れた日の赤印は、増えていない。
帳簿係は嫌そうに読み上げた。
「戻った銀貨、払わずに済んだ費用、働き続けた分を合わせて、26万8000ルク」
バルガスの眉が動いた。
「見込みは利益ではない」
「契約書には、帳簿係が確認できるものを足せる、とあります」
リーゼが言った。
声は硬かった。
だが、リーゼ家の屋敷を取る話を止めた時とは違う。
震えていても、退かない声だった。
バルガスはリーゼを見た。
「あなたは、ずいぶんこの奴隷に肩入れする」
「契約を読んでいるだけです」
リーゼは古い鍵を握っていた。
「以前、バルガス男爵がそう教えてくださいました。契約は誰にでも開かれている、と」
バルガスは笑った。
薄い笑みだった。
「よろしい。改善は認めよう。だが、残債60万ルクには届かない」
帳簿係が、次の紙を出した。
「リーゼ様より、買い戻し金として17万ルク」
革袋が机に置かれる。
重い音がした。
中身は金貨ではなかった。
銀貨と、いくつかの支払い証書。
屋敷に残っていた古い銀器を崩した金だと、リーゼは言っていた。
家を守ったばかりの下級貴族が出せる、ぎりぎりの金だった。
バルガスは袋を見て、リーゼへ目を向けた。
「ずいぶん思い切りましたね。昨日会ったばかりの契約奴隷に、家の銀器を崩すとは」
リーゼは少し息を整えた。
「この人を買うのではありません」
声は細い。
だが、逃げてはいなかった。
「昨日、私はこの人の言葉で家を一度守りました。なら、私はその続きを買います」
「続きを?」
「リーゼ家を立て直すために必要な相手を、首輪のついたまま失う方が損です。銀器は、飾るためではなく、家を残すために使います」
バルガスはしばらくリーゼを見ていた。
リーゼは続けた。
「全額ではありません。ですが、契約上の買い戻し金として計上できます」
バルガスは指先で袋を押した。
「26万8000ルクと17万ルク。合計43万8000ルク。まだ足りない」
「残りは、小口契約の紙束につけた値段で充てます」
レイジが紙束を差し出した。
帳簿係が露骨に顔をしかめる。
「回収不能の紙です」
「だから今の値段は低い」
レイジは答えた。
「それでも、契約には書かれています。男爵家が回収不能と判断した小さな契約書の束を、残債に充てられると」
バルガスの目が冷えた。
「君は、そのために条項を入れさせたのか」
「男爵家では価値がないと聞きました」
部屋の者たちが、いっせいに黙った。
バルガスはしばらく黙っていた。
それから、帳簿係に命じた。
「評価しなさい」
帳簿係は不満を隠さず、紙束をめくった。
未亡人の仕入れ代。
小作人の種代。
荷運び人の治療費。
靴職人の道具代。
洗濯女の家賃滞納。
木工職人の道具修理費。
孤児院の食料立替。
どれも小さい。
どれも焦げついている。
どれも、男爵家の帳簿では赤字に沈んでいた。
最初に借りた金だけなら、200万ルクを超える紙束だった。
だが、帳簿係は一枚ずつ、低い値札を置いていく。
1万ルクの紙に、800ルク。
5万ルクの紙に、4000ルク。
ノアが息を呑んだ。
「書いてある金額より、ずっと小さい」
「戻らない紙ですから」
帳簿係は吐き捨てた。
男爵家にとっては、捨て値だった。
値札を置き終えた帳簿係が、羽根ペンを置く。
「合計、16万5000ルク」
「足し方は単純です」
リーゼは、三つの場所を順に指した。
「戻った銀貨と、払わずに済んだ費用をまとめた欄。私が出す買い戻し金。そして、男爵家が回収不能とした小さな契約書の束につけた値段」
一つ目。
二つ目。
三つ目。
リーゼの指が、数字を足していく。
「契約では、この三つを残債に充てられると書かれています」
合計、60万3000ルク。
レイジの残債を、3000ルクだけ超えていた。
バルガスは机の上の契約書を見た。
そこには、30日前の自分の署名がある。
朱印もある。
契約は契約だ。
バルガス自身の言葉だった。
監督役が口を開きかけた。
「しかし、男爵さま――」
「黙りなさい」
バルガスは静かに言った。
監督役は黙った。
バルガスはレイジを見た。
「見事だよ」
褒め言葉には聞こえなかった。
「君は、価値のない紙に値段をつけて、自分の首輪を買った」
「価値がないなら、問題ないはずです」
「問題はある」
バルガスは微笑んだ。
「私が、不愉快だ」
それは契約条項ではなかった。
だから、レイジは黙っていた。
買い戻し書面が整えられる。
バルガスが署名する。
リーゼが証人欄に署名する。
帳簿係が朱印を押す。
最後に、レイジの署名欄があった。
奴隷としてではない。
自由民、レイジ。
その文字を見た瞬間、首輪の重さが増した気がした。
レイジはペンを取った。
手が止まる。
久我怜司。
レイジ。
二つの名前が、喉の奥で重なった。
この世界で自分に残った名前。
首輪を嵌められた名前。
水をもらった時に返した名前。
レイジは署名した。
レイジ。
その一画目から、手の感覚が違った。
誰かに書かされた名前ではない。
罰を受けるための名前でもない。
自分で選んで、紙に置いた名前だった。
バルガスが小さな鍵を取り出した。
「外しなさい」
監督役がレイジの後ろに回った。
首筋に冷たい金具が当たる。
首輪の内側で、何かが小さく鳴った。
かちり。
音は軽かった。
だが、身体の中では大きく響いた。
鉄の輪が開く。
首から離れた瞬間、レイジは息を吸った。
ただの空気だった。
薄い紙と古い革と、汗と埃の匂いがする空気。
それでも、喉の奥が広くなった。
首の皮膚が風に触れる。
重さが消える。
痛みが来ない。
声を出しても、締まらない。
レイジは手を上げ、首に触れた。
そこには輪がなかった。
赤く擦れた痕だけがある。
ノアが扉の外で、何か言いかけてやめた。
マルタは目を細めていた。
泣いてはいない。
ただ、鍋の湯気を見る時のような顔をしていた。
バルガスは首輪を机に置いた。
「自由民になった気分はどうだね」
「軽いです」
レイジは答えた。
それ以上は言わなかった。
軽い。
それだけで十分だった。
バルガスは譲渡書の束を押し出した。
「持っていきなさい。焦げついた小口契約だ。せいぜい、紙くずにならないよう祈るといい」
レイジは紙束を受け取った。
重くはない。
だが、首輪よりずっと使い道がある。
ノアが近づいてきた。
「レイジ」
「鉱山送りは止まった」
ノアは頷いた。
「うん」
返事をしたあと、ノアは壁に肩を預けた。
立っていられなくなったわけではない。
ただ、身体の力が、少し遅れて抜けたようだった。
「返済は残る」
「分かってる」
ノアは服の内側から、小さな木片を出した。
ミナ、と下手な字で書かれている。
「これ、ちゃんと手紙にする。ミナに、まだ返すって書く」
レイジは頷いた。
マルタが横から言った。
「私は厨房だね」
「1日200ルク」
「高い鍋洗いだ」
「倒れられるより安い」
マルタは今度こそ、少しだけ笑った。
リーゼは譲渡書の束を見ていた。
「それで、何をするつもりですか」
「商売だ」
「この紙で?」
「この紙で」
リーゼは黙った。
それから、古い鍵を握り直した。
「見届けます。私も、自分の家を守った紙の先を知る義務があります」
バルガスが不快そうに眉を動かした。
レイジは譲渡書を革紐で縛る。
小口契約。
焦げついた紙。
男爵家がゴミと見なした権利。
その中には、まだ返せる人間がいる。
まだ動く金がある。
まだ組み直せる契約がある。
そして、少しだけ売れるものもある。
首輪は机の上に残っていた。
レイジはそれを見下ろした。
30万ルクの値札から始まった。
60万ルクに膨らみ、鉱山候補になり、紙一枚で命を測られた。
今、手元にあるのも紙だった。
だが、今度は違う。
この紙に署名するのは、自分だ。
レイジは帳簿部屋を出た。
廊下の空気は冷たい。
首が軽い。
背後で、バルガスの声がした。
「契約は契約だよ、レイジ」
レイジは振り返らなかった。
「ええ」
紙束を抱えたまま、短く答える。
「だから、使わせてもらいます」




