厄災のヴェルガスト
ヴェルガストは生きている。
あの災厄は、何十年という歳月を経た今もなお、この世界のどこかで生き続けている。
「エレア。」
アレクシスはようやく顔を上げた。
「はい。」
「レインの師は、ヴェルガストじゃ。」
その名を聞いた瞬間、エレアの表情が強張った。イゼルダの名を知る立場にある彼女は、当然ヴェルガストという名も知っている。ただし、それは記録の中に残る過去の怪物としてだった。今を生きる人物としてではない。
「……まさか。」
エレアはレインへ視線を向け、それからアレクシスを見る。
「あの方が……レインの師匠なのですか。」
「ああ。そしてイゼルダ殿が現在形で語った以上、もはや疑う余地はない。」
アレクシスは深く息を吐く。
「ヴェルガストは生きておる。」
エレアは完全に言葉を失った。
一人の超越者が生きているというだけではない。国の勢力図さえ塗り替えかねない存在が、今もどこかで酒を飲み、気ままに生きているという事実が、にわかには信じられなかった。
事情を理解していないレインだけが、困ったように首を傾げる。
「そんなに凄い人だったんですか。村では朝から酒を飲んで、昼寝ばかりしていたおっさんでしたけど。」
アレクシスは眉をひそめた。
「……信じ難いな。」
若き日の戦場で見たヴェルガストは、酒を飲んで笑うような男ではなかった。
王国軍でも敵国軍でもない。ただ戦場へ現れ、剣と魔法で戦場そのものを支配し、誰も逆らうことを許さず、静かに去っていく。
その姿は、一人の人間というより、天災そのものだった。
「少なくとも、儂が知るヴェルガストとはまるで別人じゃ。」
アレクシスはしばらく沈黙した後、レインへ視線を戻した。
「レイン、お前はヴェルガストが何者なのか、本当に何も聞いておらんのじゃな。」
「はい。剣と魔法は教わりましたけど、自分のことはほとんど話しませんでした。」
「そうか。」
アレクシスは静かに頷き、重い声で続ける。
「ならば話しておこう。ヴェルガストとは、この大陸で最も恐れられた男の一人じゃ。」
一度、言葉を区切る。
「歩く災害。そう呼ばれていた。」
部屋が静まり返る。
「儂も若い頃、一度だけあの男を戦場で見た。敵も味方も関係なく、数万の兵が剣を止めた。誰かが命じたわけではない。ただヴェルガストが現れた。それだけで誰もが理解したのじゃ。この男を敵に回せば、戦争そのものが終わるとな。」
レインは思わず息を呑んだ。
「昔、大国があった。その国では王族と貴族が奴隷へ非人道的な扱いを続け、逆らう者は処刑され、諫める者も消された。」
アレクシスの声は静かだった。しかし、その静けさがかえって話の重みを際立たせる。
「ヴェルガストはそれを知った。そして一人でその国へ向かった。」
「一人で、ですか。」
「ああ。一人で王城へ入り、王族を討ち、貴族を討ち、その者達を守っていた超越者達も斬り伏せた。相手は名の知れた強者ばかりだった。」
エレアは黙って聞いている。
記録として知っていた出来事も、実際にその時代を知るアレクシスの口から語られると、まるで別の重みを持って胸へ迫ってくる。
「その国は小国ではない。アルディアに匹敵する大国だった。だが、守護者である超越者達を一夜にして失えば国は立ち行かぬ。周辺諸国は動き、残された者達は抵抗する力を失い、最後は無条件降伏した。」
アレクシスは真っ直ぐレインを見据える。
「一人の男が、大国を滅ぼしたのじゃ。」
レインは何も言えなかった。
「それだけではない。ヴェルガストはその後も各地の戦場へ姿を現した。どこの国にも属さず、どこの旗も掲げず、自らの意思だけで戦場へ立った。時に理不尽を力でねじ伏せ、時に双方へ剣を収めるよう告げ、その圧倒的な力で戦そのものを終わらせたことも一度や二度ではない。」
「そして、あの男へ戦いを挑む超越者は後を絶たなかった。」
レインが目を瞬かせる。
「そんな相手と戦いたがる人がいたんですか。」
「おった。」
アレクシスは静かに頷く。
「恐怖だけが理由なら、誰も近付かぬ。だが、ヴェルガストには強者であるほど惹きつけられる何かがあった。」
「一度刃を交えた者の中には、生涯あの男を越えることを目標に鍛錬を続けた者もおる。敵として恐れながらも、一人の武人として敬意を抱く者は少なくなかった。」
「誰にも従わず、誰にも媚びず、ただ己の信じる道だけを歩く。その在り方さえ、多くの強者を惹きつけたのじゃ。」
アレクシスはゆっくりと息を吐いた。
「だが、その存在を国々が公にできるはずもない。一人で大国を滅ぼす者がいるなどと民が知れば、国家への信頼は揺らぐ。騎士団も軍も、何のために存在するのかと疑問を抱く者が現れる。だから各国はヴェルガストの記録を表の歴史から消した。アルディア王国でも知るのは王国中枢、上位貴族、騎士団の席持ち、そして情報を扱うごく一部の者だけじゃ。」
全てを聞き終えたレインは、しばらく黙っていた。
そして困ったように苦笑する。
「……本当に同じ人なんですかね。」
頭を掻きながら続けた。
「僕の知ってる師匠は、朝から酒を飲んで、昼寝して、たまに魚を釣って、気が向いたら色々教えてくれる変なおっさんでしたけど。」
アレクシスもエレアも、すぐには答えられなかった。
戦場で畏怖されたヴェルガストと、レインが語る酒好きで気ままな師匠。
あまりにもかけ離れた二つの姿は、同じ人物とは思えない。
それでもイゼルダの言葉が、その事実を何より雄弁に物語っていた。
二人が語るヴェルガストは、紛れもなく同じ男なのである。




